群馬県・・・渋川市

勝保沢城・・・真田昌幸に攻め落とされた平山城、戦国期に赤城山麓に斎藤氏が築城説が

  資料館と並んで勝保沢城の案内図

 勝保沢(かつほさわ)城は、赤城歴史資料館駐車場の眼の前、現在の群馬県渋川市赤城町勝保沢に築かれた平山城だ。遺構は郭や土塁、空堀が確認できる。

  城の配置図

  駐車場東側に伸びている土塁

  駐車場脇(南側)の土塁

城への交通アクセスは上越線敷島駅から約3・8km。築城者は戦国期に躍動した斎藤安清ではないかと言われている。

 天正8年(1580)見立城を攻略した真田昌幸が、斎藤加賀守安元が城主の時に勝保沢城に侵攻したが、この地域を任せられていた盟主の北条氏邦が大戸方面に進出したため昌幸は兵を退いたと言われている。

 城跡訪問日が赤城歴史資料館の休館日だったこともありデータ収集はかなわなかったが、資料館の駐車場の隣、駐車場の目の前に城跡跡がしっかり見ることができ良しとしました。

 

   城と合戦

 勝保沢城は、戦国時代に斎藤加賀守安清が築いた城館ではないかと言われているようだ。データ不足で戦国期以前のことは不明であるが、斎藤安清は小田原北条氏に仕えた武将であったとされる。

 城は、台地状の平山の地に主郭のみを持つ小規模の城館跡だ。城域は東西に長い楕円形を成しており、南東側に土塁状のたまりがあります。台地の端にあるものの高低差が少ないこともあり、主郭部分をぐるりと回した土塁とで防備している。

  横堀と空堀

  東側の土塁と空堀

  東南側の空堀と土塁

  東北側の空堀と外側の掻き上げ土塁

 北側は段丘に頼れないので、往時はかなりの深掘だった可能性が考えられる。西側には横堀を回しており、西北角の一角から竪堀を沢下まで伸ばしている。また、駐車場の東側には土塁跡が確認されるので、これも昔は城域の一部だったと考えられる。

  南側から見た奥の主郭部分

  南側の土塁と空堀、右奥が主郭

 さらに隣接するように空堀地形が南にある宗玄寺方面に伸びていることからも、夢想するなら宗玄寺のある場所くらいまで城跡だった可能性も否定出来ない。

  南東側空堀

  北側の空堀と土塁

  北側右奥側に伸びる竪堀

  北側左側に伸びる竪堀

  西北側の空堀と土塁

 江戸時代中頃に加沢平次左衛門(沼田藩主の真田信利の右筆など)が書き記したとされる『加沢平次左衛門覚書』によると、天正8年(1580)に真田昌幸の侵攻により勝保沢城は攻め落とされたそうです。天正18年に廃城となっている。

 武田氏の重臣だった真田昌幸は、北上州の経営・防備を担当して天正7年(1579)に名胡桃城を、翌年8年(1580)に沼田城を攻め落としているが、この前後に勝保沢城も昌幸が攻め落としたと考えられる。

 ちなみに覚書を書いた加沢氏は、信濃国の禰津(ねつ)氏の家臣だったが、戦国後期に真田郷から真田氏が他を凌いで勢力を拡大してきたことから、加沢氏は真田氏に臣従している。天正14年(1586)には、加沢氏は真田信之の家老なり代々、真田の家老を務めた。

 参考資料:『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。