埼玉県・・・行田市

須賀城・・・鎌倉から戦国末期まで、須賀氏の活躍を支えた土砂堆積地に築かれた平城

 

  須賀城の碑

 須賀城は、埼玉県行田市須賀4586付近に築かれた平城だ。現状は曹洞宗の長光寺と令和4年に廃校となった旧須加小学校のある場所と言われている。

須賀城がいつ頃築かれたのかは史料不足で不明だそうですが、そもそも須賀という地名の由来は、川が運んだ土砂が堆積した砂丘を意味するようなので、城跡の北側に流れている利根川の砂の堆積上に築かれた城ということだろう。交通アクセスは2.7km 秩父鉄道の武州荒木駅を下車して2・7㎞。

 この城は、『吾妻鏡』に記述されている須加弥太郎の子孫の須加修理大夫が、天正年間に館を築いたという説もあるようだ。航空写真で見ると、いかにもお城のあった場所だったとの話を誰かに聞いたような気がするが、現地に立ってみるといかにも城館跡のあった場所と何と無く納得する地形だった。

 

   城と合戦

 須賀城は『日本城郭大系』にも記載されているが、『吾妻鑑』の承久3年(1221)6月18日の条の「宇治橋合戦」で須加弥太郎の名が見られ、暦仁元年(1238)2月17日の条に記されている鎌倉将軍の隋兵にも須賀の名が確認できる。

 そして南北朝時代に入り須賀左衛門太郎・須賀壱岐守清秀たちが足利氏の家臣となったと記載されている。戦国時代に入り、この須賀氏の子孫(裔=すえ)の須加修理大夫が忍(現在の行田市)の成田氏の家門侍として、天正年間(1550年頃)に館を築いたと『成田記』にあるので、この一帯が須賀城跡と推定されたようだ。
 城の形態は、利根川の河岸が城の北側の防塁(土塁・切岸)を成しており、川に沿って東西に長い城域を占めていたと考えられる。関係史料はほとんど無いが、城のあった場所の東半分を長光寺が、西側を旧須賀小学校が占めている。

  利根川の河岸が自然の土塁に

   参道から見た長光寺

 長光寺は、文禄元年(1593)に開山された曹洞宗の古刹(こさつ)で、寺の東側に境外仏堂の「阿弥陀堂」があった。しかし寺の北側(裏手)を流れる利根川の治水対策で阿弥陀堂は解体され新築された。その時に本尊を祀る厨子(ずし)(同市指定有形文化財)を解体修理・調査で厨子の錺(かざり)金具が、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が確認されて、阿弥陀堂は江戸時代中期の宝永年間(1704~11)ごろの建立ということが判明している。

 ところで『吾妻鑑』の中に須賀氏の名が記載されている承久3年の「宇治合戦」(承久の乱)で、須賀彌太郎が奮戦して傷を負ったことが確認できる。18日の条の「宇治合戦に敵を討つ人々の交名を注す」として、「今日、死者を関東に遣はす。この度の合戦の間、官兵を討ち、また疵を被り、官兵のために討ち取らるる者、かれこれ数多あり。・・・その交名を注して武州に送る。よって勲功の賞を行はれんがために遣はすところなり・・・、6月14日宇治合戦に敵を討つ人々・・・・、6月13日・14日、宇治橋合戦に手負いの人々で、13日の35人の手負いの者の中に須賀彌太郎の名が見られる。

 そして嘉禎4年・暦仁元年(1238)2月17日の条の「頼経入京、六波羅新だいに入る」の項に記されている鎌倉将軍の隋兵に須賀の名が確認できる。行列は駿河前司の隋兵36人に続いて、先陣駿河前司(三浦義村)で、御所の隋兵192騎の30番目に「須賀左衛門太郎」記名されている。

 仮に『吾妻鏡』に記載されている須賀氏が、鎌倉時代に築いて居城としたのであれば、承久3年頃には館が築かれ、戦国期には城館へと規模拡大と防衛上の城へと拡充されて可能性が高いと言える。

 南北朝時代には足利氏の家臣の中に須賀左衛門尉の名前があるが、永享12年(1440)に関東公方の足利持氏の外戚の一色伊予守は、武州北一揆とともに利根川を越えて須賀土佐入道が守る須賀城を攻撃し、一夜で焼き払っている。大永2年(1522)以降は古河公方と北条氏との間で須賀城を巡る攻防戦があったようだ。

 戦国末期は北条氏が支配しており須賀城城主は須賀修理亮。忍の成田氏に仕えて天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐で忍城と共に破れて開城し、須賀城は廃城となったようだ。

 *撮影した写真が停電トラブルで大半を喪失しましたので、写真不足となりました。

 参考資料:『日本城郭大系』、『吾妻鏡』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。