群馬県・・・長野原町

 

長野原城と羽根尾城・・・城主は「長野原合戦」で活躍、一城別郭の長野原城と海野氏の本拠の羽根尾城と「わが家のお花便り」

      長野原城の本丸跡の碑( 道の駅の案内写真から)

   羽根尾城の遠景

   道の駅案内写真

 長野原城は、永禄初年(1560)ころに羽尾幸全が現在の群馬県吾妻郡長野原町字古城に築いたと伝わる山城だ。別名を箱岩城。

 長野原の街並みの北側尾根で、白砂川と吾妻川が合流する地点から見て西側の両川に挟まれた尾根筋に築かれている。地元の人のお話では、城跡への山中はクマの出没の可能性があるのでと注意喚起されました。

 最近は熊の出没で、危険なことが多いので、今回も素直に登城は諦めました。城の遺構は、土塁や郭と空堀で城域は約700×200㍍位と東西に細長い山城だそうです。最寄り駅は群馬大津駅から約1㎞か長野原草津口駅から17分くらい。

   大きくて音も賑やかです

  そういえば熊対策として「カプサイシン(唐辛子)のスプレー」と大きな音の出る「熊避鈴」が必須と言われますが、スプレーはまだですがしっかりした鈴(写真)を手に入れました。

 猛暑が続いており、スプレーを購入していざ出陣とまでにはなかなかなりませんので、平城、丘城くらいで当面は我慢したいと思います。

   googleマップより

 

    城と合戦

   長野原城は、本丸、秋葉出丸、箱岩出丸、物見郭、水の手からなり、それぞれ虎口や堀切り、腰曲輪等があるようです。城郭は南北に延びる竪堀によって分断されていることから、「一城別郭」(一つの城に2つの本郭を持つ構造で箕輪城や高天神城など)の城とも言われているようです。別名の箱岩城の言われは、岩壁に囲まれた城域が目立つため箱岩城と呼ばれたようです。

   長野原城要図(城郭大系より)

   築造年は不明であるが、戦国時代に吾妻地方は武田氏に与した真田氏と越後の上杉氏に与した斎藤氏による両者の争いが絶えなかった。永禄5年(1562)頃は、岩櫃城の斎藤憲広が領していたが、武田信玄が憲広を除いて真田幸隆の弟である常田俊綱(降永か新六郎)を長野原城に入れた。

   翌6年9月になって岩櫃城主の斎藤憲広は、長野原城奪還に動いて攻略に成功し、羽尾・海野の兄弟に城を任せた。合戦でいえば「長野原合戦」が当てはまるようで、現在の長野原町諏訪神社あたりが激戦地だったようです。

   これに対して信玄は、憲広の岩櫃城を攻略(憲広の甥の斎藤弥三郎憲次の寝返り)して湯本善大夫に長野原を任せた。その後は、善大夫、三郎右衛門と武田配下の真田氏に属した。その後も、武田と上杉の代理戦争は続いたが、天正10年(1582)以降の資料は少なく、どのような展開を見せたのかは不明であり廃城の年月はわかりません。 

   羽根尾城と長門守の墓所への登り階段

  長門守の墓

   ちなみに「長野原合戦」でも活躍したと考えられる羽根尾海野長門守の供養塔が羽根尾城跡説明板の側にあるが、上野の国衆の海野長門守の持ち城。城は長野原町羽根尾712の城峰山頂に築かれ、この城を本拠に勢力を振るい、草津の湯本、嬬恋の西窪、鎌原両氏などと並んで我妻を舞台に活躍していたそうです。最寄駅はJRの羽根尾駅。

  羽根尾城の堀跡か

   切岸か

   羽根尾城の切岸下が削平されて現在の用水路に

  堀跡

  土塁と堀

  墓近くの宗泉寺・曹洞宗

  寺側の城への登り口

   当然のように「長野原合戦」では、海野兄弟は岩櫃城主の斎藤越前守方の大将として長野原城を攻略した。その後、真田方についた羽根尾海野長門守は岩櫃城攻略で戦功を上げて岩櫃城代に。しかし、真田昌幸の代に誤解と地侍の手前から天正9年に海野兄弟を急襲して、長門守は城にて自害、能登守は追っ手に敗れてやはり自害した。

   参考資料:「海野長門守の墓説明板」(長野原町教育委員会)、「羽根尾城跡説明板」(長野原町教育委員会)、「長野原町HP」、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

○わが家のお花だより

  今年も源平葛が咲きました

  睡蓮木・サマーパープルです

  ブルーラグーン

 

次回は「古代蓮の里」と行田の田んぼアート」をお届けします。