埼玉県・・・小川町

奈良梨陣屋とわが家のお花だより・・・諏訪神社の神官大祝の遺跡を継ぎ家康に仕え、帰封して諏訪藩の藩主に

   陣屋跡に建つ八和田(やわた)神社

 奈良梨陣屋(ならなしじんや)は、天正18年(1590)に市の川右岸の微高地で、現在の埼玉県比企郡小川町奈良梨930付近に諏訪小太郎頼忠・頼水父子が陣屋を置いた。諏訪頼忠は、信濃の諏訪神社の神官大祝家で、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の遺跡を相続した。頼忠は武田家が滅んだ後に徳川家康に仕えていた。頼忠の後継者の頼水は、家康の関東入府の後に諏訪の領地から転じて奈良梨・羽生・蜷川などを拝領して1万2000石の極小大名として奈良梨に陣屋を置いた。

  神社本殿

  八和田神社の鰐口(わにぐち)

  左側が土塁跡か?

 陣屋が置かれた期間は諏訪頼水が上野惣社に移封される文禄元年(1592)までで、わずか3年間で廃陣となった。残念ながら遺構はほとんど残っていない。交通アクセスは、JR八高線か東武東上線の小川町駅を下車してバス利用で熊谷行きで奈良梨下車で徒歩約10分。

 

   陣屋と諏訪氏

 築城は安土桃山時代とされ、天正18年(1590)8月説もある。諏訪小太郎頼忠が築城・館したと伝わり、諏訪頼水が居住したとも言われている。

   目通り5・6、樹高30㍍の大杉、形状から「逆さ杉」

 (諏訪頼水が天正18年に所領を定める際に信州諏訪から投げたスギがこの地に刺さったという伝説あり)

 八和田(やわた)神社の境内に曲輪跡や北側と東側に土塁跡が確認される。また堀跡(箱薬研)は東側にある。矢和田神社は樹高30㍍あるという巨大杉があることでも知られている。

  東側の堀と土塁

  神社北東側の土塁

  神社北側の土塁

 ちなみに諏訪家は、信濃の諏訪神社の神官大祝(おおほうり)の子孫の家であり、戦国末期には武田信玄の支配下に入り、武田氏の滅亡後には諏訪頼忠が再起して諏訪地方の支配を奪還するも、徳川家康の進出で家康に帰属していた。

 天正18年に起きた豊臣秀吉の「小田原征伐」の後に、家康が関東への転封で諏訪頼忠・頼水の父子は「小田原征伐」での戦功として武蔵の奈良梨、羽生、蛭(ひる)川などで1万2000石を拝領して奈良梨に陣屋を構えた。

  神社北西側の土塁 道路は堀跡か

  北西側の土塁と堀跡

 しかし、3年間在国した後に嫡男の諏訪頼水は文禄元年(1592)に上野国の惣社に移封した。故郷の諏訪郡は、豊臣秀吉の家臣である日根野高吉が封じられ、高島城が築かれた。「関ヶ原の戦い」の後の慶長6年(1601)に日根野高吉の子の吉明が下野壬生に移封され、その後に諏訪頼水が諏訪郡の72ヶ村・2万7000石を賜わり帰封した。

  神社東側の池の睡蓮

 頼水は城下の整備や新田開発、諏訪湖岸開拓などで諏訪藩(高島藩)の藩政確立に尽力した。そして「大坂の陣」に置いて頼水の嫡子である忠恒が従軍して元和4年(1618)に恩賞として筑摩郡(長野県西部)の内13カ村5000石が加増され3万2000石となる。以降は10代忠礼(ただあや)で版籍奉還を迎えている。

 参考資料:「八和田神社の大スギ、諏訪神社の鰐口」説明板(小川町教育委員会)、『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、『奈良梨陣屋』(埼玉県教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

○わが家のお花だより

ボリジ・スターフラワー

 エキナセア

 多肉植物

 わが家の田植えから1か月後の稲田、8日から中干しです

以上・・・