埼玉県・・・寄居町

金尾要害城・・・室町期の築城で鉢形城の支城、北条氏とともに破れて廃城に

 金尾山要害城絵図・寄居町観光協会・金尾支部の資料より

   金尾要害城・愛宕神社・山頂への登城口

 金尾要害城は、室町期末の天文元年(1538)に藤田左衛門佐(さえもんのすけ)重利が現在の埼玉県大里郡寄居町金尾要害山(標高225㍍)に築いた複郭式山城だ。遺構は見た感じは無いように見受けられたが、寄居町観光協会・金尾支部つつじ保存会まとめの配布資料をみると、結構それらしい雰囲気の切岸や崖・掻き上げ土塁風の地形がそれなりに確認された。

  左側奥の藪の先に四の曲輪

  参道脇の切岸(左側)

  登城路となっている南参道

  参道脇は切岸 

  山頂直下の登り

 室町期の築城で、北条氏に仕えた金尾弥兵衛が居住していたとされるが、金尾氏は武蔵七党の一つである猪俣党の系譜を引いており、観光協会の資料で見る限りは複郭式の山城であり、麓に金尾氏は居館(現在の伝蔵院)を持っていたようなので緊急時に立て籠もる城であり、戦いの城である要害城なのだろう。

  要害山城に設置されている櫓台(展望台)

  櫓台跡に建つ展望台

  櫓台からの展望

    山頂直下の愛宕神社

 山頂の一の曲輪(櫓台)直下には愛宕神社が祀られており、この城の守護神を金尾氏が勧請(かんじょう)して武運長久を願ったのではないだろうか。

 また、この金尾山は、別名を「つつじ山」と呼ばれており、全山に約5000株の山つつじが自生しており、4月中旬頃には山は緋の衣をつけたような素晴らしい眺めになるそうです。

今回は暖冬の影響で開花期が早まり残り花でした。交通アクセスは、秩父線波久礼駅下車して徒歩で約30分。県道82号線が南側の四の曲輪を分断しており、駐車場もその一画にありました。

  長瀞方面を望む 

 

    城と合戦

 金尾山は、中世の名城・鉢形城(長尾景春築城)西方の支城の一つであり、要害山(城主は金尾弥兵衛)城だ。鉢形の西方および後方の守り支城として古道の監視と天神山城、花園城、鉢形城を結ぶ連絡の城としての機能を併せ持った城として築城されたようだ。

  二の曲輪

 天正18年(1590)6月14日に豊臣秀吉による小田原征伐で、小田原北条氏が秀吉に屈した。このため北条氏が支配していた鉢形城の落城とともに落ちて廃城となった。土塁や竪堀、馬出しなどの遺構が見られるとされるが、城跡のある領域は藪と雑草が生い茂っており踏破・途上には困難を要し断念しました。

  三の曲輪脇の南参道

 金尾要害山城の概要(縄張り)は、山頂を中心に2つの部分からなり、北の部分の山頂には一の曲輪、その下にニの曲輪、中央に愛宕神社が祀られ、南北に2ヶ所の虎口がある。一の曲輪西、北の急峻な裏山には竪堀や堀切が確認されるそうです。

  山林と雑草に覆われている複式連郭の城遠景

 また、南側の遺構として北側より築城時期が新しいとされ、南に向けて尾根に細長く三の曲輪、南の曲輪(四の曲輪)があり、南北を結ぶ土橋があったとされる。山麓の伝蔵院が城主の居館跡で、居館と城との間には裏山越えと言われる細道があり、金尾の対岸、波久礼の地に城の穀物倉(殿倉の地名がある)があったという。

  県道の開通で切断された4郭

  4角の南側部分

  4郭の先端は切岸

 山の頂下の二の丸曲輪側にある神社は、永禄3年(1560)以降、支城の完成を機に城主の金尾弥兵衛が城の守護として祠堂を建立したのが始まりとされる愛宕神社がある。祀神は火防の神である阿久津智命(かくつちのみこと)、導きの神である猿田彦命の2柱をお祀りしているそうです。

 金尾氏は、猪俣高綱の子の季範が金尾に居を構えたことから、金尾氏を名乗ったのが起源とされており、城を築いた藤田左衛門佐重利に仕えていたようだ。小田原北条氏が関東で勢力を伸ばし北条氏邦が鉢形城で武威を張って北条の版図を広げると藤田・金尾の両氏も北条氏に付き従った。

 しかし、小田原北条氏が秀吉に屈すると、金尾城も開場して秀吉の軍門に降り廃城となった。

 参考資料:「金尾山由来」説明板(寄居町金尾白髭神社氏子一同、寄居町観光協会・金尾支部など3団体)、「要害山城跡説明資料」(寄居町観光協会・金尾支部 つつじ保存会)、『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。