埼玉県・・・東松山市

高坂城・館、高坂陣屋・高済寺・・・寺境内の西側に巨大な土塁と堀と徳川家臣の加賀爪氏累代の墓・・・上

高坂(たかさか)城は、昔の高坂村で現在の埼玉県東松山市高坂834に小田原北条氏の家臣である高坂刑部の屋敷ではないかとの伝承があるが、築城年代は南北朝時代の高坂氏の居館ではないかと推定され、戦国期に小田原北条氏により改修・整備されたのではと考えられているようです。

  高坂城の現存の堀と土塁説明図

  道路脇の土塁断面

 現状は、曹洞宗の高済寺で法音山多聞院の境内の西側に巨大な土塁と堀が残っている。そして徳川家康の家臣である加賀爪政尚の居館と加賀爪氏累代の墓が、西側の矢倉台に造られている。 

  加賀爪氏の累代の墓所

 高済寺は、齋藤助右衛門(法名高梁院玉嚴道毘居士、元和8年・1623死去)が開基したとされ、野本無量壽寺第六世大渓和尚が開山したという。無量壽寺は野本氏館のブログで先日紹介済みですのでご参照いただけたら幸いです。

  切岸・崖の下は都幾川の河川敷続き

   城館跡の遺構は、寺の裏側(北側)が都幾川を背景に、城館・寺を守るように切岸状態となっている。都幾川が氾濫した時に機能する湧水ポイントと思われる都幾川リバーサイドパークが整備されているが、昔はこの辺まで湿地帯か川幅となっていた可能性が高い。そして巨大な土塁と空堀が寺の西側にこれを見よとばかりに造られている。交通アクセスは、東武東上線高坂駅を下車して徒歩で約20分。

 

    城と合戦

 高坂城・館は、曹洞宗の高済寺境内がかつての高坂館と言われる場所だ。来歴は良く分からないが、在地豪族の高坂氏ではないかとされている。城館跡の詳細も今一つ不明であり伝承と遺構調査に食い違いがあるとされている。

 現地に示されている「高坂館跡」の説明板には、高済寺左側に残されている土塁と空堀の遺構が見られる。城・館の敷地の南半分は宅地化や畑地として耕作され、現在は殆んど遺構らしきものが見られない。外郭部の堀も大半が埋め立てられている。

  高済寺本堂

 この城館跡も南北朝時代に遡って築城され、後に伊勢宗瑞(後の北条早雲)が明応3年(1494)に「明応の政変」でこの地に在陣し、北条氏康も永禄5年(1562)の「松山城攻め」で在陣したと伝わるため、当初は都幾川を背景に背負った「方形の居館」だったものの、それに北条氏が手を加えて現状のような巨大な土塁や空堀が巡らされたと考えられている。

  本堂脇の土塁

 残存する土塁の長さは約100㍍、高さは2から6㍍で、幅は約4㍍と大きなものだ。しかも、特徴的な褶(ひらみ=土塁の上面幅)は5㍍程と非常に厚みがあり、多人数で土塁上からの迎撃態勢が組み易くなっている。

  墓所への登り(土塁上に)階段

   墓所の碑

  寺左手にある城山稲荷

 土塁上の加賀爪氏墓地である辺りと南側の城山稲荷裏側は、物見櫓などがあったと推定される。ちなみに発掘調査で、館跡とされた場所の南側に隣接する高坂2番町遺跡で、高坂館に符合する出土物が検出されたことで、現在では南北朝期~戦国時代初期は「高坂2番町遺跡」ではとの考えが有力になっている。そうなると高済寺中心の現状の城館跡は、北条氏が新たに陣城として築いた可能性も出てきますが?

  往時は崖が敵を防いでいたのだろう

  土塁の下は崖で、現在は道路に

 では、高坂館を築造したと伝わる高坂刑部大輔とはいかなる人物だろうか。史料的根拠は不明ながら、武蔵七党の秩父氏一族の流れを汲む江戸氏庶流だという説も聞かれる。名称の高坂氏から、別説では信濃国に高名な高坂氏に結びつけている説もあるようだ。つまり高坂弾正忠昌信に結びつける説だ。もう一つは北条氏の家臣説であるが、これも明確な史料は無いようです。史料が無いだけに、歴史好きな我々は城館跡と合わせて夢を膨らませるのも楽しみの一つと言えます。

  墓所から続く土塁

  寺の右側奥は竹藪で

 さて、もう一人の人物として江戸時代に、この地を拝領した徳川幕府の旗本加賀爪備後守政尚についても一考察しておきます。加賀爪備後守政尚は、駿河の今川の被官だったが、「桶狭間の戦い」で敗れてから今川家は衰亡してため徳川家康に仕えて家康譜代に辛うじて潜り込み3000石の旗本に。

 豊臣秀吉との「小牧・長久手の合戦」や北条氏との「小田原征伐」に参戦し、後継者の忠澄が「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」で軍功を挙げて従五位下民部少輔となり5500石に。役職も、目付・江戸北町奉行・大目付などを歴任して9500石。

 加賀爪氏3代目の甲斐守直澄が、乱暴者ながら仕事は有能で書院番頭・大番頭・寺社奉行などの要職を務めて1万3000石に加増されて、極小大名となった。しかし、4代目の尚清は、近隣の領土争いから改易処分となり天和元年(1681)に高坂陣屋は廃止となった。

 参考資料:『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、「高坂館跡説明板」(東松山市教育委員会)、『寛政重修諸家譜』、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。