埼玉県・・・東松山市

小代氏館・青蓮寺とわが家のお花だより・・・小代氏の居館、東西200㍍、南北225㍍

 

    小代重俊供養塔

 小代(しょうだい)館は、平安時代末期に小代次郎大夫遠広が武蔵の入西郡小代郷に住んで地名から小代氏を名乗り、現在の埼玉県東松山市正代字中形851付近に築いた館と伝わっている。

 館の南西角にある青蓮寺(正代864−1)の境内には、小代重俊の仁徳と先祖の供養のため、小代氏一族関係者が小代重俊供養塔「埼玉県指定史跡 弘安4年(1281)銘板石塔婆」青石塔婆の板碑が建立されている。

   青蓮寺本堂

   板石塔婆

 館域は、発掘調査の結果として東西200㍍、南北225㍍のかなり規模の大きい館だったことがうかがえる。しかも、この付近には「岡ノ屋敷」を含めて3カ所ほどの館跡の可能性も指摘されているようです。

 今回の館訪問では、青蓮寺を目指して行きましたが、交通アクセスは東武東上線の高坂駅から1・8㎞、徒歩で約25分。遺構は田畑の整備や住宅化の影響ではっきりした土塁や空堀の確認は難しいが、南側の御霊神社周りの高台や青蓮寺前側の高土塁・切岸などはその雰囲気が感じられる。

   青蓮寺入り口近くのしだれ桜

 

    館と合戦

 小代館跡は、都幾川と越辺川に挟まれた高坂台地の東端の一画で周囲の田圃と比べて約9㍍高い台地上に築かれたそうです。その規模は当時の館跡としては規模も大きく前述したように東西200㍍、南北225㍍くらいあったと推定されている。

 中形の北側に位置する個人宅の裏側には土塁や空堀の跡が見られたかもしれないが、今回は時間の都合でお伺いできませんでした。

   青蓮寺下・上に山門が見える

 小代館の住人であるが、この方は武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が小代郷に居住して、小代を名乗ったのが始まりとされている。

 父の入西資行は武蔵権守家行の弟で、資行は入西郡(現在の入間郡)を領して入西三郎大夫資行と称した。子の行業は同郡浅羽に居住して浅羽小太夫と称し、浅羽氏の祖となる。源頼朝に仕えた。

 この浅羽行業の弟が、つまり今回登場した入西資行の次男遠弘であり、入間郡小代郷に居住して小代二郎大夫と号して小代氏の祖となっている。遠弘の末子である小代八郎行平は源頼朝に仕えて、一ノ谷の合戦や奥州征伐に参戦して戦功をあげて、壬生庄の地頭となっている。

 鎌倉幕府執権の北条氏と三浦一族の内戦「宝治合戦」(宝治元年=1247)では、小代重俊の子の重康の活躍もあり、肥後の野原荘(現在の熊本県荒尾市)の地頭職(地頭代が管理)に任じられ、文永8年(1271)に幕府から蒙古襲来にそなえて、重俊の子息たちは野原荘行きを命じられ、蒙古襲来の弘安4年(1281)の戦闘では軍功をあげ、小代氏は肥後国の国人となり三百数十年に渡り肥後で勢力を誇ったという。

   悪源太義平を祀った御霊神社

   御霊神社の鳥居と本殿を望む

   御霊神社本殿

 ちなみに小代氏が悪源太義平(源義平が御祭神)を祀った御霊神社が、寺の南隣りに建立されている。神社は、源義朝の長子で頼朝・義経らの異母兄である源義平が居住していたようで、久寿2年(1155)8月16日、源義平(15歳)は軍勢を率いて 突如、大蔵館(比企郡嵐山町)に住んでいた父義朝の弟である源義賢(木曽義仲の父)と義賢の義父である秩父重隆を討ちました。

 いわゆる内訌ですね。後に、悪源太義平は、京都・六条河原で処刑されます。享年20歳だったそうで、家臣であった小代氏が源義平の御霊を祀り御霊神社を創建した。詳細は大蔵館紹介2020.05.28「木曽義仲の生誕の地・・・大蔵館(大蔵神社)」のブログを参照ください。

 参考資料:「弘安4年銘板石塔婆の説明板」(埼玉県教育委員会、東松山教育委員会)、『武蔵武士』(有峰書店)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

 ○わが家のお花だより

  ブーゲンビレア

  オオトリトマ

   ゴールデントランペット

  昼顔