群馬県・・・高崎市

保渡田城・・・信玄の重臣の内藤昌豊(昌秀説も)が築いた渦郭式平城

  北城跡に残る土塁

  北城に残る外堀跡

 保渡田(ほとだ・ほどた)城は、かみつけの里(はにわの里)公園から至近の北西部の群馬県高崎市保渡田町1330に、武田信玄の重臣(四天王の一人)内藤昌豊(昌秀説も)によって築かれた渦郭式平城だ。

 城跡内には天子塚古墳(丸墳・昭和62年から庚申塚に活用)が有るが、この古墳は櫓台として活用されたようだ。庚申塚活用は、土地によって作神,福神,治病神など多くの現世利益的な神様のようで、塚には、町内から集めて祀っているようだ。

交通アクセスは、上野東京ライン井野駅下車して6・2㎞。遺構としては本丸跡(北部公会堂)や堀跡、2の郭(北城)の土塁や堀跡が確認できる。

 北城跡の西側に残る水堀跡

 今回の訪問で一番驚いたのは、現在の北城跡は私有地となっておりますが、地主の方にお声がけさせて頂いたら、親切にも私有地内の土塁と堀跡まで案内していただき写真を撮らせていただくことができました。

何と言っても写真を見て頂いても明らかに、大きくて高い(3〜4㍍)土塁と堀跡を見ることが出来ました。感動です!!

 

    城と合戦

 保渡田は、永禄9年(1566)に武田信玄が上野(こうずけ)侵攻によって築いた渦郭式(曲輪を渦巻き状に配置)平城だ。箕輪城の支城だけに箕輪から東南に3・2㎞の平地に築かれ、城域は南北に約300㍍、東西に200㍍くらいはあるようだ。

  北城(ニノ郭)の西から東にドル以上の跡が見られ、削れて面影のみ

      確認でき、虎口は崩れて確認できません

  削平されてしまった土塁跡

 本丸のある北部公会堂は、方80㍍の広さで周りは土塁で囲まれ、その回りをぐるりと土塁が配された二重土塁となっている。本丸内には百庚申天主台(櫓台)が南側に配置されている。南側の追っ手口からは3つの城壁・土塁を経て登城することになる。

  本丸跡・北部公民館

  南側に配された櫓台・天主山

 一方、北側も土塁真ん中に出入り口を設けて北城・2の郭へと繋がっている。北城の北側の裏は写真のような大土塁が築かれており、敵を寄せ付けない造りとなっていたと想像される。2の郭の西側に3の郭が配置され、また、本丸の東側には5の郭、南側に4の郭、さらに西側は土塁に囲まれた屋敷(武家屋敷か)、追手口の南側は城下町を配していたようだ。

  櫓台に集められた庚申塚

 武田信玄は、上州の箕輪城(長野氏)を同年9月29日に落として箕輪城代に浅利信種を配したが、永禄12年の「三増峠の戦い=神奈川県愛川町で北条氏康・氏政などと戦う」で信種が戦死した。そこで後任に武田四天王の一人である内藤昌豊(昌秀)を城代にした。

  西側から見た土塁の断面

 昌豊(昌秀)は、箕輪ではなく新たな地域支配の拠点として保渡田砦を改修して保渡田城を築いて居城とした。しかし、天正3年(1575)の「長篠の戦い=三河の長篠設楽原で織田・徳川連合対武田軍の合戦」で昌豊(昌秀)は討死して養子の千次郎(昌月)が跡を継いだ。

  北城(ニノ郭)後に建つ民家の裏手に土塁が

  北側にある高土塁跡

 天正10年(1582)に織田軍に攻められて武田氏が滅んで、内藤氏は居城を滝川一益に明け渡して「本能寺の変」が起きた後には北条氏に仕えて保渡田城主に返り咲き、天正17年(1589)7月11日に内藤昌月(昌明)は厩橋城主の中川武蔵守に攻められて落城・自刃してその後は廃城となったと伝わる。

 参考資料:「保渡田城址説明板」、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。