静岡県・・・南伊豆町

白水城・・・尾根筋に築かれた水軍の城、自然災害で通行禁止と小雨で主曲輪だけで断念

   主曲輪跡

 白水城は、室町初期に長津呂港の東側に土豪の御廉(みす)氏が築いた尾根式山城だ。場所的には現在の静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎字鍋浦山(標高約70㍍)の北西に伸びている尾根筋を活用している。

 今回の登城は、登城口のロープで通行不能と諦めかけたが、地元(港の駐車場管理人)の方のご協力で、関係資料と合わせて主郭まで登城出来ることが判明してホッとした次第だ。

  左側の尾根筋に白水城、長津呂湾にある石廊崎漁港

  主曲輪への登城口の橋

  白水城の主曲輪から左に2、3、4曲輪方向を見る

  登城路を進むと大規模な土塁と堀を有する謎多き水軍の城と聞いていましたが、やや小さめであったが情報に違わず最初から大岩を削ったような壁もあり楽しく登城できました。

  自然の岩を利用した城壁か

  主曲輪への急坂登城路

  当日はわずかに雨も降り、城跡は先の自然災害の影響で主郭から先の7、8郭への道は通行禁止となっていました。当然、北側の4曲輪と帯郭へも切岸が軟弱で踏破するのも容易ではないので諦めました。

  遺構は主曲輪や土塁、堀切、切岸などが確認された。交通アクセスは丸山城と同じように不便なところで、伊豆急下田駅から石廊崎行きのバス終点。漁港から登城路を行くことになる。

  主郭手前の3の曲輪

   城と合戦

 白水城が歴史上の文献に見られるのは、土井神社所蔵の「足利基氏伝帳」と言われている。初代鎌倉公方(正平4年=1349から67)の足利基氏(尊氏の4男)の頃に、「長津呂・白水城主 御簾三河守」と記載されていると伝え聞きます。

 城の名前の謂れは登城口から直ぐの、今も残る城内の井戸に白い水が湧き出していたことから白水城と名付けられたそうです。

城の縄張図・令和4年(2022)によると、長津呂湾の南西側の駐車場脇からの登城で緩やかな堀を登ると、右手に古井戸跡があります。さらに登ると3の曲輪に突き当たり左手に2の曲輪、その外側に帯曲輪、北側には4、5、6の曲輪が配置されている。

  3の曲輪の周りの土塁跡らしきものが僅かに見られる?

  主曲輪への登りの堀切か切岸に石塁の跡か?

 3曲輪から南東に向かって登城すると比較的緩やかな平地に出っくわす。ここが主郭・本郭と考えられており、朽ちた白水城と記した木製の標柱が捨て置かれていた。その先は堀切を越えて7、8、9郭へと続くようだが、通行止めでストップしました。また、城の周りは南西側が海と自然の崖や切岸を利用して、東側は堀切によって背後の小高い山林などから独立させ、敵の侵入を困難にしている。

  主曲輪の南側は堀切でその先は崩れており通行止めでした

  主曲輪に建てられていた白水城の標柱は無残にも朽ちていた

  標柱を立てかけて見ました。何とか白水の字が見えます

  足元が崩れて堀切に先の6の曲輪には進めません

  主曲輪下の2の曲輪

  2の曲輪の切岸・右側

  この城が、鎌倉公方の足利基氏と関係していたとすると、現状の縄張りからして戦国期に地元の土豪達か小田原北条氏の指示で改修されて戦う海城に変身した可能性が大と言えますね。

  城の名前になった白い水が湧き出したと伝承される井戸

  白水城の名前の由来のある井戸の底

  そして迎えた明応2年(1493)に、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方足利茶々丸(甲斐に落ち延びるも明応7年戦死)を攻め滅ぼして、伊豆守護の関東管領山内顕定を怒らせて戦闘状態に入ります。宗瑞の伊豆侵攻では、丸山城に配置された富永氏同様に、この地方でも村田氏や高橋氏などの土豪達を従わせている。ただし、鎌倉期に名の上っていた御簾氏は聞かれないので、この時点までに何らかの理由で排除された可能性(諸説あり)もある。

  登城口に祀られている何かの神様

  なお、北条水軍は武田氏との海戦などに駆り出されているが、豊臣秀吉の小田原征伐では、水軍のすべてを清水康英の傘下に収めて下田城に参集させたことから、この時期に廃城となった可能性が高い。

  参考資料:「静岡県の歩ける城70選」(静岡新聞社)、「南伊豆町 白水城の発掘調査(第1報)」(南伊豆町史編纂委員長外岡龍二日本考古学協会員)、「石廊崎白水城と加納矢崎城について」(?事務局)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。