静岡県・・・伊豆市

丸山城・・・土肥・高谷城主の富永氏の支城、大規模な水軍の基地

  丸山城の出城の全景

   丸山城の概要図

  スポーツ公園の満開の土肥桜

  蘇鉄と土肥桜、奥がスポーツ公園

  登城口から富士を仰ぎ見る

  出城への海側登城口

  左側が石累で堅牢に

  登城路がハイキングロード

 丸山城は、現在の静岡県伊豆市八木沢字円山にあった丘城で、地元の土豪の拠り所とされていた小さな海賊の城だったとされる。このため築城者や年代は明らかではない。しかし、歴史上では室町中期には土肥高谷城主の富永氏の支城であり、水軍の根拠地となっていたようだ。戦国時代には、古代豪族の出自でその子孫が三河富永氏となったと伝承される。

   広場となっている出城跡

 今回の登城は、地元の方の情報や『静岡県の歩ける城70選』の中で、先山丘陵側は、後世の改変で明らかな遺構と言えるものはほとんどないとあったので、海寄りの北にある丸山・出城のみの登城としました。

 丸山の城域は、十分に堪能でき、しかも富士山も見え、曲輪や土塁の確認もできました。

遺構は曲輪跡と土塁、竪堀らしきもので、交通アクセスは伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅下車して約28・1㎞。バス利用で堂ヶ島行き60分・土肥円山公園下車。

 

    城と合戦

 丸山城は、伊豆の西海岸で、土肥港の南西側に位置し、駿河湾に突き出した丸山丘陵(約46㍍)と国道136号線を挟んだ南側の先山丘陵に築かれた船溜りをもった総面積20㌶の大規模な水軍の城とされる。

 湾を北に見て張り出した山塊に丸山・出城が築かれており、その麓(船溜りからの海岸)は入江となっていたようで、現在は丸山スポーツ公園となっており、北西の高みの出丸は敵船の様子を監視する位置に配されている。

  丸山城の出城

  出丸の北東側角に土塁で区画され山随大權現が祀られている

 出丸部分は公園として整備されており、北東隅が土塁で区画され山随大權現が祀られている。山頂部は40㍍×30㍍の平坦が曲輪跡と思われ、周りの一部に土塁と思われる遺構が見られる。また、南西側の国道付近に堀切(写真)があったような気配が見られ、国道を挟んだ南の山腹には本城、物見曲輪、詰の曲輪、などが配されており、防備として本城南側に竪堀が数本掘られている。

  出城に土塁らしき塁が確認された

 国道よりの堀切から、背後の山頂にある牛頭天王神社付近までが城域と言われているが、この部分が後世の改変により残念なことになっているようで、無理して丸山・西伊豆歩道を歩いてもあまり成果がないようなので断念した次第です。

  土塁跡

 一方、この城をもとに活躍された土肥富永氏であるが、初代と伝わる実直(後に政直)は、近江生まれで西伊豆に移住して地元勢力を配下に収めて土肥高谷城や丸山城を築いて勢力を伸ばした。

そして時を経て延徳3年(1491)に、伊勢新九郎長氏(後に出家して早雲庵宗瑞)に仕えて、北条軍の中核部隊として活躍して明応2年(1493)に興国寺城代をまかされている。さらに大永4年には北条氏直の命を受けて江戸城を奪って城代に任じられたとされる。

  出城からの下城路(本城へ向かう)に見られた石垣・石塁

 弘治2年(1556)の里見氏の水軍と相模の「三浦三崎沖の海戦」、永禄7年の「国府台の合戦」にも、政直の子の政辰が戦うも、国府台で戦死した。子孫は北条5家老の一人となり山城守を名乗っている。

  国道脇の本城から続く堀切か?

   出城から本城・八木沢への案内標識

 天正18年の豊臣氏の小田原征伐では、韮山城の援軍として籠城するも敗れて浪人となったとされる。迎えた慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで富永直則が徳川家康に仕えて徳川家の旗本となっている。

 参考資料:「丸山城説明板」(教育委員会)、『静岡県の歩ける城70選』(静岡新聞社)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。