静岡県・・・沼津市

長浜城①・・・小田原北条氏が伊豆半島の付け根の内浦湾に築いた水軍基地

 

 

長浜城航空写真・パンフより    弁天社鳥居と長浜城跡の碑

 

 駐車場からの登城口・4曲輪へ  弁天社と4曲輪の分岐

 長浜城は、小田原北条氏が天正年間(1573〜93)に伊豆半島の付け根部分の、現在の静岡県沼津市内浦重須字城山に築いた水軍基地だ。城は南から延びる尾根の先端部の岬上の城山と呼ばれる小山に築かれて、駿河湾から現在の沼津市を眺望する防御拠点だった。

 パンフレットより         安宅船の大きさ模型・長さ24㍍✖️️幅9・8㍍

 通説では北条氏の水軍基地として使われたのは、甲斐の武田氏(三枚橋城=元亀元年に勝頼が沼津市大手町に築城・狩野川水軍)と緊張関係に陥った天正7年から18年までの11年間で、遺構は曲輪跡、土塁、堀切、竪堀などが確認される。交通アクセスはJR大仁駅下車して約5・2㎞。

 城域は、海からの高低差30㍍程の平山城であり規模は決して大きくはないが、眺望も良く急斜面を利用した海側に対して陸側は中心となる曲輪(1〜4と3の曲輪など)を防御するように土塁や堀切、竪堀などが重点的に配置されている。

 今回の登城は、駐車場から4曲輪から1曲輪・主郭を目指しました。城からの眺望は、富士山や駿河湾が一望され、北条水軍が活き活きと出港して行く様や、城兵の活気ある姿を想像するだけで楽しくなりますね。

 

  1曲輪から見た富士山や沼津市街、湾にはヨット

 

    城と合戦

 天正7年(1579年)北条氏は韮山城や徳倉、大平などの狩野川沿いの城を守るために長浜城を普請して駿河湾の水軍の拠点とした。城将には、梶原備前守景宗を派遣して北条水軍の主力を結集させ武田水軍に備えたとされる。

 長浜城の縄張図を見ると、山頂の主郭(第一曲輪)から東へ三段の曲輪、北の岬先端に向かって四段の腰曲輪があり、西側から南に回り込む海側は海を防備線にした小曲輪が2つ設けて犬走り状の回り通路と急勾配の土塁状の崖を配している。

 今回の登城では、駐車場の関係で第4曲輪側からとなったが、北西に登って堀切を越えて第3曲輪に到達する。さらに西側に進むと長浜で最も広い第2曲輪だ。そして南西側の山側は防御用の土塁や堀切。西北の第1曲輪(主郭)と第2曲輪は復元された櫓の階段を上って、1階と2階で出入りする構造となっていた。

  4曲輪に立つ説明板

 4曲輪と3曲輪の間の虎口周辺平面図

 跳ね橋の復元図

  狭い通路・3曲輪から3曲輪の虎口に向かう

  虎口の復元図

  3曲輪に立つ説明板

  3曲輪からの横矢の仕組み説明図

  跳ね橋や虎口の有った場所

  虎口のあった場所

 主郭からの眺望は、内浦湾越しの富士山や武田水軍(狩野川水軍)の前線基地のある三枚橋城の城跡地も見渡せる。長浜城が戦いの主役として登場するのが、「重須(おもす)の戦い」で、天正8年春に現在の沼津市内浦重須で武田勝頼と北条氏直が戦った合戦だ。今川氏を滅ぼした武田軍が駿河を手に入れて、北条氏の領国である伊豆が狙われた。そこで北条氏政は伊豆西海岸防備の長浜城を強化整備と合わせて船掛庭・重須の湊を築いた。

 『北条五代記』では、梶原景宗や清水越前守、富永左兵衛尉、山角治部少輔、松下三郎左衛門尉、山本信濃守たちが長浜に送り込まれ、4月25日に両軍は重須沖で衝突・海戦におよんだ。

 鉄砲を撃ちかけたり、時には舟寄せして切り込んだようだ

 始まりは武田勝頼が浮島ケ原に出陣し、北条氏政は氏直に命じて軍船を出航させた。そこで武田軍も向井政綱や小浜景隆達武田水軍を押し出させて海戦となった。戦いは激戦となったものの決着が着かずに日没で双方が船を引いて終結したとされる。

また、翌天正9年3月29日の伊豆久料津における両軍の海戦では、梶原率いる北条水軍は向井・小浜・伊丹率いる武田軍に破れている。

 なお、天正17年(1589)頃には大川兵庫が長浜城番であったが、翌天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条水軍は長浜から下田城や小田原城に集結させており長浜城の機能は低く小田原城開場前に降っている。(つづく)

 参考資料:「長浜城跡パンフ」(沼津市教育委員会)、『別冊歴史読本』(新人物往来社)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。