茨城県・・・常総市

豊田城・・・小貝川を活用した要害の地で、520年余続いた名門豊田氏の居城

 

  小貝川の堤の一角に立つ城跡碑と説明板

 豊田城(館)は、後冷泉天皇の御代である李承年間(1046〜53)に多気太夫常陸大掾平重幹の第次男である平四郎政幹が、豊田郡(石下町、千代川村、下妻町、糸線川以南、八千代町東南部大半、水街道市大半)を分与されて石毛(下)(若宮戸及び向石下)に居館を構えた。土地の名を冠して石毛荒四郎または赤須四郎と名乗り周辺一帯にその勢威を張っていた。

 そして南北朝時代の正平元年(1346)に豊田善幹が豊田城を築いたとされている。戦国期の豊田氏は、佐竹や多賀谷との戦いで疲弊して味方の小田氏治が没落したことで自領を浸食され続けた。豊田政親・治親父子の時に多賀谷政経の侵攻を許し、治親が家臣に毒殺されたことで豊田氏は520有余年に亘る歴史に幕を閉じた。

城は多賀谷重経、三経の居城として20有余年居住するも、関ヶ原の戦いで重経が石田三成に与して慶長6年(1601)2月27日に徳川家康により重経の父親である多賀谷政常が追放されて廃城に。

 城好き、山城好き、土の城好きにとって残念なのは、7階建ての模擬天守を持つ地域交流センターを別称・豊田城として常総市のランドマーク然としていることだ。ここまでするなら、天正3年(1575年)前後の時代と同じ城館摸造の城館でよかったのではと思うのは私だけだろうか。

 城跡とされる場所は、小貝川堤防の一画に史跡豊田城跡と記されて石碑が建立され、その隣に「豊田城跡」として詳細な説明文が掲示されていた。交通アクセスは関東鉄道常総線石下駅から石毛橋経由で約1・2㎞。

 

    城と合戦

 豊田城は、城跡説明板にあるように平重幹の次男である四郎政幹が向石毛(石下)に館を構えたのが始まりだ。「前9年の役」に一族郎党を率いて源頼義・義家父子に従い安倍頼時、貞任、宗任親子を討って凱旋、天喜2年(1054)に恩賞の栄に浴し豊田郡を賜り、鎮守府副将軍に列した。名を豊田四郎政幹に改称した。現地説明では、「四郎は豊田と猿島の両郡を治めつつ館を向石下に構えるも、後に子孫居所を変え11代目の善基が台豊田(今の上郷)からこの地に城を築いたのが始まり」と明記されている。

 と言うことは豊田城跡の場所に城を築いたのは四郎ではないと言うことなのか。居所を転々と変えて再び11代目の善基が元の向石毛に豊田城を築いたと言うのが通説となるのか。

  多分初期の豊田城・館の想像図(地域交流センター展示)

 豊田城の初期の縄張は、常総市地域交流センターに展示されている想像図から紹介していくと、小高い丘の上に中心をなす館(本郭)を配し、周りに柵と切岸を回して、切岸下部に段帯郭を設けて柵と切岸で防備を固めている。

 さらに城・館の大手口側は馬出し用地なのか柵で囲った広場を要している。ただ、南北朝時代という背景からか3つの作門を設けているものの、容易に敵に侵入されそうな本郭までの1本通路と言うのがいかにもと言える。

 豊田氏の活躍期は源平合戦(治承4年・1180富士川の戦いを初戦)時代に源氏に属し、平氏の追放と頼朝の開いた鎌倉幕府への臣従と奥州の藤原泰衡の追悼、建保元年(1213)の上田原親子の捕獲と活躍。

  紺糸威五枚胴具足(こんいとおどしごまいどうぐそく)と

    小田家伝来陣羽織

 『吾妻鏡』の第4巻の元暦2年・文治元年(1185)4月15日の「東國の住人任官の輩の事」で、兵衛尉義廉(鎌倉殿は悪しき主なり)と批判している中で、豊田兵衛尉(義幹)については「色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただ候ふべきに、任官気有なり、父は下総において度々召あるに不参して、東國平らげられて後参る、不覚か」と表記されている。

 しかし宝治元年(1247)の「宝治合戦=三浦泰村の乱=最後は頼朝御影堂(法華堂)御前で泰村以下500余人自殺す」で三浦に連座して鎌倉(北条執権支配)の不幸を一時は買ったものの、その後、復活している。南北朝時代には南朝に属して、護良親王、北畠親房を小田城や関城に擁して戦うも、その後は高師冬と和解して足利家に従属した。

 戦国時代には、金村城や長峰城、行田城などの各将と協力して結城や佐竹の勢力と戦うも、力及ばず衰退の道を辿った。特に豊田氏21代目の政親、22代の治親の時に、下妻城主の多賀谷重政、政経の侵攻には小貝、長峰台、蛇沼、加養宿、五家千本木、金村の合戦は数10度に及んだと言う。

 戦国期の城だけに、小貝川の流れを利用した要害堅固な守りに徹していたものの、天正2年(1574)に豊田氏の盟主である小田氏春が、佐竹勢により土浦城が落とされて、翌3年9月に石毛次郎政重の城中頓死(急死)、そして豊田治親が10月下旬に家臣の謀反(一夜・夜に毒殺か)にあって毒殺され、520有余年に及んだ豊田家も滅んでしまった。

  毒殺の場の再現図(地域交流センター展示より)

 豊田氏の守護神は「蟠龍旗(ばんりゅうき)」で、「前9年の役」の時に豊田政幹が洪水で阿武隈川を渡れづに困っていると、夢に妙見大菩薩が現れて「私が守護神として守ってあげよう」と述べたとされ、翌朝、旗に描かれていた龍が飛び出し、政幹軍は竜の背に乗って一番乗りの手柄を立てたと言う伝説があり、この蟠龍旗を守護神としたそうです。

 参考資料:「豊田城跡説明板」(旧石下町)、『吾妻鏡』、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。