茨城県・・・常総市

常総市地域交流センター・・・現在の「豊田城」と別称される交流センターは、豊田氏の事跡なども展示

 常総市地域交流センターの利用案内によると、茨城県常総市新石下2010番地に建てられた7階建ての天守閣が常総市地域交流センターです。交通アクセスは関東鉄道常総線の石下駅下車して徒歩で10分ほどの場所です。

  ナウマンゾウ骨格標本展示

  菅原道眞公天神縁起絵巻・天神社蔵

 地域交流センターのHPによりますと、常総市は茨城県南西部、都心から55㎞圏内に位置し、東西に10㎞、南北20㎞の長方形に近い地形で、東に小貝川、西に飯沼川を有し、中央を北から南に流れる鬼怒川によって東西に分けられる。

  

  家康から拝領の神武(じんむ)盃                                      

 常総市の石下地区は、はじめは「イシケ」と呼ばれ、「イシ」は砂河原、「ケ」は作物・食物の意味があり、農耕に適した土地であったことが考えられる。5世紀頃から「伊師毛」と記され、和銅6年(713)に「石毛」に変わり、江戸時代の寛永7年(1630)の検地で「石下」と改められた。

  菅生(すがお)城・常総市菅生町に有った戦国時代の城

 常総市のHPには、菅生城は築城、廃城の時期や城主として文献に表れる菅生越前守胤貞の出自など明らかになっていないこともあるが、永禄3(1560)年の横瀬能登守永氏らとの合戦や、天正5(1577)年の多賀谷氏の侵攻の様子が後世の文献等に記されており、室町時代から戦国時代にかけての情勢が部分的に遺されていると記されている。

 この地域交流センターは、別称を「豊田城」と命名されている。平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した桓武平氏一族の豊田氏が、東部に流れる小貝川沿いに城館を築き、豊田城(とよだじょう)と呼ばれていたことから命名されたそうです。

当時は、このような石垣や天守閣(高さ48.5メートル)ではなく、カヤ葺きの居館造で、小貝川の水を引き込んだ濠や土塁により要塞化したものであったと考えられる。

  古間木(こまき)城復元想像図

    豊田氏に仕えていた渡辺氏の城館・常総市古間木に有った

 豊田氏の起こりは、前9年の役で手柄を立てた平政幹(まさもと)が、豊田郡を与えられて地名から名を豊田四郎平正基(まさもと)に改称したのが始まりだそうです。

 豊田氏は豊田城や石毛城、向(むこう)石毛城などを構えて、小田氏とともに下妻の多賀谷氏に対抗した。しかし、安土桃山時代の初めに豊田治親が暗殺され、豊田氏は滅びたとされる。

 センター入り口展示場には、「豊田城主毒殺の場」を表現した人体人形が展示されており、説明文によると「天正3年(1575)10月、城主の豊田治親(はるちか)は、家臣の飯見大膳の催す茶会の席に出掛け、毒を盛られ飛香の死を遂げた」を記されている。

  豊田城主毒殺の場の展示

 戦国期の豊田氏は、佐竹氏の勢力を背景とする下妻の多賀谷氏と攻防を繰り返していた。多賀谷氏は、激しく抵抗する豊田勢に手を焼き、豊田治親殺害の計画をたて、その目的を果たしたとされる。

 地域交流センターは1100人収容のホール及び図書室(1・2階)と、地域の歴史を紹介した展示室からなる施設として平成4年に開館。平成30年にデジタルコンテンツを取り入れた展示施設としてリニューアルオープンしていると案内している。

 *豊田城跡については、この後のブログで紹介しますので、今少しお待ちください。

 参考資料:「常総市地域交流センター展示館内の各種説明板」(常総市地域交流センター)、「常総市HP」、『日本城郭大系』、『吾妻鏡』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。