静岡県・・・静岡市

江尻城・・・武田信玄が築かせた梯郭式平城、

穴山梅雪が家康に降伏 小芝八幡宮の2つの御朱印

 江尻城は、永禄12年(1569)正月に武田信玄が駿河先方衆に命じて、現在の静岡県静岡市清水区谷津町2丁目に築かせた梯郭式平城だ。別名を小芝城、於芝城。残念ながら遺構はほとんど確認されず、小芝八幡宮辺りが旧三の丸と言われており、地名として本丸や二の丸など城の名残のある地名が昭和47年頃まで残っていたそうです。

  小芝八幡宮の鳥居

  小芝八幡宮

  小芝八幡宮本殿

 城跡は市街地化されて残念ながら何も見られないが、嵯峨天皇の弘仁2年(811)創建の小芝八幡宮が北東側に占位しており、江尻城が築かれるときに廃れていた祠を城内に移し、八幡宮を鎮守の神として祀ったとされる。

 慶長6年に廃城となったが、八幡宮は現在地に移されて村社、郷社に昇格して旧東海道江尻宿九町の産土神として尊崇されている。

 小芝八幡宮さんの御朱印がいただけましたので掲載します。一般的な「奉拝」を記したものと、丸いサッカーボールをあしらった御朱印の2点です。

 

    城と合戦

 現地の説明板や『城郭大系』などによると、本丸は江尻小学校のある辺りで巴川北岸に方形に置いて、川が西側、南と東、北側の三方を内郭で囲み、内郭の西北と西を外郭で囲む縄張りをなして、北と東、西にそれぞれ丸馬出しを設けている。本丸の南側から東に回して二の丸を、さらに二の丸外側の東北側に三の丸を水堀で囲っている。

  黒丸のところが小芝八幡宮・三の丸跡

 この城は、前回紹介した横山城との関係が深く、武田信玄が永禄11年12月の駿河侵攻により今川氏真を遠州掛川(朝比奈氏の庇護)に追放した戦いにおいて築かれた。

 武田の駿河支配地への補給基地であり、徳川家康に対する橋頭堡(陣地)並びに補給路確保のため。さらに城域西側の巴川の水軍拠点などに活用するために築城されたと考えられる。また、「薩埵山の戦い」に対応するためであり、今川氏救援を掲げる北条氏康・氏政父子との対決のための城とも言われる。

 本丸のあった場所・江尻小学校

 築城は今福和泉守を築城奉行に、馬場美濃守信房が縄張図を引いて駿河先手衆が工事を担当した。急造された城には武田の重鎮である武田左衛門佐信光が兵数百を率いて守備し、元亀元年(1570)には穴山信君(梅雪)が城主に。天正6年に梅雪は、城の大改修を実施するも同10年(1582)2月に徳川家康に降って城(降伏勧告を受け入れて開城)を明け渡している。なお、「関ヶ原の戦い」後の慶長6年に築城以来32年を経て廃城となる。

 参考資料:「江尻城跡説明板」(静岡市教育委員会)、「小芝八幡宮説明板」、「江尻城跡」(江尻地区まちづくり推進委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。