静岡県・・・静岡市

興津清見寺の御朱印・・・徳川家康の幼少期・竹千代が、今川の太原和尚に学んだ寺

 興津清見寺は、徳川家康が今川の人質時代の幼少期に太原和尚から学んだ寺でよく知られております。寺は『臨済宗妙心寺派』に属し、本尊は『釋迦如来』、開山は『関聖上人』だそうです。寺名は『巨鼇山清見興国禅寺』と称し、境内の面積は、6千余坪、建物の坪数は550余坪だそうです。交通アクセスは静岡市清水区興津清見寺町418―1。JR興津駅下車して約15分。

  清見寺全景

   本堂

 「臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺」HP(要約)によると、約1300年

前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃に東北の蝦夷に備えてこの地に清見関が設けられた。関所の鎮護として仏堂が建立されて仏堂を以って清見寺の始めと伝える。

  寺の庭・築山池泉回遊観賞園

 鎌倉時代に中国より伝えられた禅宗が清見寺におよび禅宗に改められた。室町幕府を開いた足利尊氏は、深く清見寺を崇敬して清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め天下大平を祈った。室町幕府は清見寺を官寺と定め、「全国十刹」の中に置き保護した。

 駿河を領せした今川氏は、足利氏と祖を同じくする関係で常に清見寺を外護した。六代将軍足利義教は駿河富士遊覧に下向時に、今川範政これを迎えて清見寺にて清遊。画僧雪舟も清見寺に来て、後年富士・三保・清見寺の景色を画いている。

 寺の附近の地勢は自然の要害となり、戦乱の場合には争奪のちまたとなることが多々あった。特にこの時代は、今川・徳川・武田・北條等の戦国大名が入り乱れての戦いの場となった。このため一時期、清見寺は荒れ寺となったが、今川義元の後援を受けた太原崇孚禅師が清見寺を復興した。太原和尚は清見寺を妙心寺派に属せしめ、清見寺の第一世に。

 徳川家康は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けた。大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依して再三に渉って清見寺に来遊した。これらの因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、200余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けた。

  竹千代(家康)習いの間・建て替えで復元(柱や欄間などは当時の物)

 この清見寺は、国指定史跡の朝鮮通信使遺跡(興津清見寺境内)・ユネスコ世界の記憶「朝鮮通信使に関する記録」は、江戸時代に平和的な日朝交流の象徴であった朝鮮通信使の使節休息場所として利用された。平成6年に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定された。

 上段の戸袋には沖縄の城・グスク絵

  グスク絵の隣には朝鮮のお城

  扁額は寛政2年の朝鮮通信使の書

 

訂正:前回の井伊家の家老である木俣守勝の居宅は設けられなかったで、現地の「木俣家屋敷跡」で???としたが、その後の子孫は屋敷を設けていたということですね。