滋賀県・・・彦根市

木俣守勝・・・彦根藩に家康が送り込んだ附け家老、彦根城築城の陣頭指揮を取る

   木俣屋敷跡

 彦根藩の木俣守勝(きまたもりかつ)は、徳川四天王の一人である井伊直政に徳川家康が付家老として送り込んだ武将だ。木俣家は1万石を領していたが、理由はわからないが陣屋を持たないため、月の内の20日間を西の丸三重櫓で執務を行っていたと聞いていた気がします。しかし、今回、彦根城に登城して見たら佐和口に「木俣屋敷跡」と記した石碑が立っており???となりました。

  夕日に霞む彦根城

 木俣氏は楠木正成の嫡孫である楠正勝の子孫と伝わり、時を経て伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に居住を据えて木俣を名乗り、天文年間(1532〜55)に木俣守時が三河に移り徳川家康に仕えたとされる。

そして守時の子が守勝だと言われている。徳川家の家臣で、関ヶ原の戦い以降、西郷氏などとともに木俣氏も彦根藩井伊氏の附家老として送り込まれた。

 守勝は、若い時に家族といさかいを起こし徳川家を出奔して明智光秀に仕え、戦功により50石を与えられていたが、後に徳川に復帰して天正10年(1582)6月の「本能寺の変」の時に、堺にいた家康を助けて三河に逃げ帰る「伊賀越」を成功に導いた。

 「天正壬午の乱」において、家康から武田の旧臣の招請を命じられて山県や原、土屋、一条などの武将傘下に属していた旧臣の招請に成功した。家康が武田の旧臣達を井伊直政軍に組み入れて「甲州同心衆」として再編し、そのまとめ役として守勝が徳川家臣のまま命じられ、この縁から直政の寄騎となり当初は2000石が与えられた。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東仕置で、井伊家が上野の箕輪に移封すると守勝は3000石となり、直政の寄騎から徳川家臣から井伊家臣に転属となり「御付人」と称され筆頭家老となる。

 井伊直政が「関ヶ原の戦い」の後遺症で亡くなると、家康から井伊直継の補佐として彦根城築城の陣頭に立って尽力する。石高も4000石に加増された。しかし慶長10年(1605)に守勝は、病から政務を同じ附家老の鈴木重好に任せたが、西郷や椋(むく)原達が鈴木父子は不正していると家康に告発した。

 この騒動で家康は、木俣守勝の政務復帰と鈴木父子の追放。そこで守勝は、同輩の椋原や西郷らに鈴木重辰(重好の子)との和解を起請文に記して事態を収める。慶長15年に守勝は死去して家督は養子である守安が継いだ。

 参考資料:『寛政重修諸家譜』、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。