滋賀県・・・彦根市

彦根城③・・・国宝天守が美しく見応えのある城、迫力の登り石垣や大名庭園も

  天守と附櫓

  東側の玄宮園から見た天守と附櫓と多聞櫓

  彦根城跡全図(国宝彦根城天守パンフレットより)

 彦根城は「関ヶ原の戦い」の戦功から井伊直政が石田三成の佐和山城と旧領地を与えられたが、戦傷から慶長7年に死去して、幼少の嫡男・直継が家督を継いだが、実際の家政は直政の遺臣である家老の木俣守勝などが徳川家康と相談しながら同9年に琵琶湖に面した彦根山に彦根城の普請を開始した。完成は天下普請であったが元和8年(1622)までかかった。

  大堀切に架かる廊下橋は戦時には落とす・右が太鼓門

  太鼓門と続櫓

  太鼓門への登り

  太鼓門櫓と続櫓(本丸の表口を固める櫓門、城内側は壁が無く、音を内側の石垣に響かせたそうです)

  天秤櫓

 鐘の丸虎口石垣

  北西側から見た天守

  本丸の鉄砲狭間

  内廊下

  天上板を張らない天守の梁・木組み

 城は彦根城全図を見るまでもなく南北に長い丘の上を整地して鐘の丸、太鼓丸、天守・本丸、西の丸を配置した連郭式平山城だ。築材は大津城や佐和山城などから移設、部材活用して築かれたと言われている。

  築城当時のままの用水池

  東側の登り石垣

  井戸曲輪跡の井戸跡

  西の丸3重櫓

  西の丸櫓の石垣

  西の丸登り石垣

  西の丸側から見た天守

  東側の内堀に架かる黒御門

 また、防衛力を高めているのが2本の大堀切です。彦根山に南北に配置された城域を断ち切るように構築された大きくて深い空掘だ。1つが天秤櫓直下に掘られており、大手門と表門から侵入した敵が本丸目指して合流・侵入するのを大堀切(現在は橋がある)が阻止している。

もう1本の大堀切は、西の丸三重櫓と出曲輪の間に設けられて、内堀を突破した敵が搦め手(裏手)から侵入するのを阻止している。

さらに全国的に見ても珍しい「登り石垣」が5カ所造設されている。そもそも、登り石垣は豊臣秀吉の朝鮮出兵・侵略戦において、日本軍が築城した倭城(わじょう)で多用したもので、斜面を移動する敵の動きを阻止すべく高さを2㍍前後の石垣で築き、山の斜面を登るように造られている。

 [国の名勝玄宮楽々園]

 玄宮園は下屋敷である槻(つき)御殿(現楽々園)に伴う後園として、江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園。

  楽々園の槻(けやき)御殿

  玄宮園

  玄宮園から見た彦根城

 参考資料:「彦根市HP」(観光文化戦略部 文化財課)、「国宝彦根城天守パンフレット」(彦根城運営管理センター)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。