滋賀県・彦根市

清凉寺の御朱印と井伊直政像・・・ 井伊家の菩提寺で直政を開基として開山

 

 清凉寺は、滋賀県彦根市古沢町1100にある井伊家の菩提寺で、寺の裏手には井伊家一族のお墓があります。寺の背景には佐和山城西麓の琵琶湖湖畔を望む場所にある。彦根駅から徒歩で約20分。

    清涼寺の本堂

 この寺は、関ヶ原の戦い直後に徳川四天王の一人である井伊直政が移封され、慶長7年(1602)に井伊直政が死去すると、この地を墓所として直政を開基として開山した。直政の戒名の「祥壽院殿清凉泰安大居士」から祥壽山清凉寺となった。

 開山以前は、現在の町を見下ろす位置に石田三成の佐和山城があったが、彦根城建設のために石垣の多くが持ち去られ、三成の居城としての歴史は完全に抹殺された。寺境内地は、三成の奥方や家老の島左近の屋敷のあった場所で、表参道まで内湖があった。本堂は宝永5年に再建されている。

  井伊家一族の墓所

  井伊直政の墓所

○寺の七不思議○

 清凉寺には「七不思議」と言われる怪奇現象の伝承が聞かれる。

石田家重臣の島左近にまつわる不思議が4つあり、①左近の南天=島左近が愛でた南天の木は、木に触れると腹痛を起こす。②壁の月=左近の居間が寺の方丈となったが、その壁に月形の影が浮かびあがる。壁を塗り替えても浮かぶと言われている。

 ③唸り門=左近邸の表門が山門となったが、大晦日に風もないのに低い唸り声のような音がする(山門は江戸時代に焼失)。④洗濯井戸=左近が茶の湯に使用した井戸では、汚れ物をひたしておくと一晩で真っ白になったと伝わる。

 あとの3不思議は⑤井伊家の家臣が佐和山城の戦利品を虫干ししていると、佐和山方面より黒雲が湧き起こって戦利品が風で持ち去られた。⑥本堂前のタブの木は樹齢数百年の佐和山城以前の木であったが、夜な夜な樹精が女性に化けて参詣者を驚かせた。⑦墓地の一角の池には、佐和山城落城の際に沢山の人の血が流れ込み、以来夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がる。

いろいろ面白い伝承は、古い時代、城館跡のあった所には付き物ですね。ご愁傷様!

○井伊直政公像

 

 JR彦根駅前の広場に設置されている「井伊直政公像」には、次のような説明文が掲示されている。

 永禄4年(1561)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ヶ原の戦いで功を挙げ石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。

 その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602)41歳で病没し、子らが直政の意思を受け継ぎ20年の歳月を費やし元和8年(1622)彦根城を完成させた。こうして彦根35万石初代藩主井伊直政は、今日の彦根市発展の礎を築いたと記されている。

 一方、安政の大獄で名を馳せた江戸幕府大老の井伊直弼は、13歳より清涼寺で参禅して心身の修養につとめた。江戸末期の安政年間の政局においては、万一の覚悟として住職と相談して戒名を受け、位牌を生前に作り、亡くなる年の正月に自分の肖像画に歌を書き、清涼寺に納めて3月3日の桜田門外ノ変で、桜田門外の雪と散った。

  井伊直弼像(彦根城内)