山梨県・・・山梨市

武田氏親族が栗原郷を拝領して栗原氏を名乗る、・・・栗原氏屋敷

   大翁寺入り口にある屋敷説明板

 栗原氏屋敷は、現在の山梨県山梨市上栗原字西神付近に建てられた屋敷だ。栗原氏は、清和源氏武田氏から分かれた親族と言われ、武田の始祖の信義から数えて7代目の孫である甲斐守護の武田刑部大輔信成の子、武田十郎武続(たけつぐ)が、東郡栗原郷を領して郷の栗原を称したのが始まりだそうです。

 屋敷跡は大翁寺や妙禅寺、海島時、養安寺などの広範囲にわたって築かれていたようなので、とりあえず大翁寺を目指していってみました。寺の門柱の建つ傍に「栗原氏と栗原氏屋敷跡について」の表題で説明板が建てられていた。

   わずかに残る土塁跡   

 周囲を見回すと、わずかに残っている土塁跡が投句に確認されたので、いって見るとかろうじて土塁と思われる土の盛り上がりが確認できました。また、土塁跡には数百年くらい経ったと考えられる老木が毅然とした姿で武を張っていた。

この屋敷跡にわずかに残る遺構も、農耕による開拓と放置で時代とともに消えて行く可能性があるので、ぜひ、残していただけたらと思います。交通アクセスはJR山梨市駅下車して2・5㎞。

 

   屋敷と合戦

 栗原氏屋敷の築城年代は明確な史料では見られないが、応永年間(南北朝の統一後の1394〜1428)に栗原武続によって築かれたのではと云わる。屋敷を室町期の居館らしく基本的には方形を成しており、その規模は約100㍍四方(1万m2)あったようだ。残っている土塁は居館の周囲にめぐらせていた防塁でもある。応永6年(1399)2月7日の「大善寺文書」には、栗原続吉が甲斐国宇多田郷(栗原の近接地の山梨市歌田)を領有していたことが記されている。また同書に文明5年(1473)に栗原伊豆守信重の代官が田中郷の寄進状など栗原氏との関わりが明記されており、現在の山梨市栗原周辺を治めていたと考えられるとされる。

   屋敷概要図は城郭大系から

  土塁跡

  土塁跡にある数百年の時を刻む大木

 栗原氏と合戦は、甲斐の下克上(守護の武田氏と守護代の跡部氏が争う)の時代といわれる嘉吉から永正(1441〜1521)年間において多くの戦いに出陣している。長禄元年(1457)から2年における抗争では、武田の親族の岩崎一族の多くが戦死している。しかし寛正5年(1464)における両者の戦いは、跡部駿河守明海の死によって翌年の「夕狩沢の戦い」は武田信昌が勝利した。

 武田信虎(甲斐源氏武田氏18代当主)の時代の永正16年(1520)には甲斐国は信虎に統一されて守護所(守護の居館)や家臣団も石和から甲府に移しているが、栗原氏など有力国人が反発した。この年の6月には栗原氏を大将にして軍を発しており、さらに享禄4年(1531)の「河原辺の戦い」で浦殿が打ち負けて、栗原兵庫、諏訪氏が討死したとも言われている。

  いずれにせよ信虎によって甲斐の統一過程で栗原氏も武田氏に従い、栗原伊豆守信友、栗原左衛門佐昌清などが信虎・信玄父子に随従した。なお、海島寺は栗原武続が開基している。

 参考資料:「栗原氏と栗原氏屋敷跡について」説明板(山梨郷土研究会・早川春仁会員)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。