山梨県・・・甲州市

甲斐源氏12代目の当主で、武田氏9代目当主の館・・・武田信春館(慈徳院)

    信春館跡に建つ慈徳院

   信春館の要図

 武田信春館は、JR塩山駅から約1㎞の山梨県甲州市塩山千野字八桑田(千野3653)にある慈徳寺・院の境内が館跡と言われております。武田信春(のぶはる)は甲斐源氏12代目の当主であり、武田氏9代目当主でもあるそうです。南北朝時代から室町時代前期の武将で、武田信時流の武田氏の子孫と言われ、武田信成の子だ。

    武田信春の墓所

 塩山駅から近い柳沢山慈徳院の境内が武田信春の館跡とされるが、墓所に碑が建てられているが、特に館や信春の説明板などもなく残念な館訪問となった。遺構も昔は土塁や堀跡がと言われていたが確認には至らなかった。

 

   館と合戦

 武田信春館は、塩ノ山の東、重川右岸の台地上に蟠踞していたとされ、館付近には青梅街道という交通の要衝を押さえる場所にある。館の規模は、慈徳院の境内を中心に東西100㍍、南北147㍍で室町期の方形を形付ており、周囲には水路をめぐらしてあったとされる。

    信春を弔った宝篋印塔か   

 館の東側には「諸氏屋敷」、「鹿子(かのこ)屋敷」。西側に「馬場」、さらに北西は「女中屋敷」などの地名が残っているようだ。

 『太平記』によると、武田信春は南北朝時代に、祖父の安芸国守護の信武・父信成と共に足利尊氏の北朝方に属して南朝方と戦った。祖父の信武(甲斐守護でもあり尊氏の近習)の代わりに父親の信成とともに甲斐国に在国もした。

 文和元年(1352)の武蔵野合戦では、信武(陸奥守)、信成(刑部大輔)、信春(修理亮)達3000騎が、守護の武田信武に率いられて戦ったとされる。文和4年(1355)4月の柏尾山の陣では、甲斐国内の南朝勢力と戦って南朝方を破っている。応永元年(1394)の信成死去にともなって甲斐の守護職を継承(伊豆守と陸奥守にも叙されている)したとされる。武田宗家の歴史の中で、この信武、信成、信春の時代が比較的安定した時代だったとされる。

   寺の脇に吊るされた甲州市名物の枯露柿作り

 甲斐守護の武田氏は、南北朝時代以降に守護として甲府盆地東郡に守護所を設置したとされ、信春も青梅街道沿いの塩山千野郷に館を構えたとされる。武田信春は、晩年の応永20年(1414)2月の乱により館が陥落したために、信春は萩原山中に逃れて柳沢に山城を築いて居住した。同年10月23日に柳沢で死去したと伝わる。そして信満が遺命によって館に寺を建立して慈徳庵と名付けたとされる。

 なお、武田宗家は信義を初代とする1394年から1413年の信吉の死(勝頼から3代後で断絶)まで20代目で終焉となる。

 参考資料:『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。