東京都・・・足立区

武蔵千葉氏の千葉次郎勝胤が築城、現在は中曽根神社が祀られている・・・中曽根城

 

 中曽根城は別名を千葉城と言われ、現在の尾竹橋通りを 西新井橋から北に向かって 1km弱。尾竹橋通りから 50mほど 西に入った東京都足立区本木2−5−7に中曽根神社があり、その一画に「史蹟 中曽根城跡」の碑が建てられ、昔日の城跡を物語っている。

   境内にもある中曽根城跡碑

  中曽根城跡と刻まれた神社入り口

 スマホを頼りに途中をクネクネと曲がりながら訪ねたお城は、中曽根神社・中曽根会館で、その一画に城跡の石碑が建立されていた。600年以上前に築かれた城跡の遺構はなかったが、中曽根城址とまちおこし研究会がまとめた『わがまち中曽根とその周辺』という貴重な本に出会いました。交通アクセスは日暮里・舎人ライナー扇大橋駅から1・6㎞、徒歩約20数分。

 

   城と合戦

 中曽根神社は、『新編武蔵風土記稿』で記載されている「千葉某の古城蹟にあり。則かの城の鎮守なりれと云う。千葉氏の妙見を尊敬することは世にも知る所なれば・」と記されており、妙見社・神社は城の鎮守として勧請されたと考えられております。

   中曽根城跡の碑

 この神社が、創建されている場所そのものが中曽根城のあった所であり、平成7〜8年に行われた発掘調査で城の堀跡や土居(防塁)が見つかり、同時に発見された井戸の中からは建武5年(1338)と明応9年(1500)の板碑が発見されました。

 神社は、妙見社といい「千葉某」の城址に所在した鎮守であるとされ、かってはこの付近に下総千葉から同族間の争い(享徳の乱として世が乱れた)に負けた千葉一族の千葉次郎勝胤が寛正(かんしょう)年間(1460〜66)に中曽根城を築いたとされる。千葉氏は扇谷上杉氏から赤塚城や石浜城を与えられ、新たに荒川を南に望む現在の本木2丁目付近(本木村)に赤塚城の支城として平城を築いた。

   中曽根城跡碑文

 一般的に城の形態は、築城年代から想定されるのは扇谷上杉氏が隆盛を極めていた時期ととらえると方形の居館と考えられ、周囲六町四方(36㌶)でその構えに堀や土居をめぐらしていただろう。平坦な住宅地の一画に神社が建てられており、昔日は荒川の流路などから荒川の河川敷の土の堆積した小高い場所に館を、周囲に櫓を建てて外柵を設けて敵に備えた城郭だったのではないか。

   神社本殿

 地元の郷土史研究家の万年一さん著作の『本木志』によると、明治初年ごろまで、その堀址と防塁の跡を偲ぶことができたが、大正13年(1924)頃、周囲と比べ標高が高かった神社の敷地は、妙見社の部分を残して掘り崩されて平坦な土地になってしまったと記されているそうです。レンガの製造で、原料として切り崩されて平坦になったようです。

 中曽根城跡において重要な役割となっている「妙見社」は、千葉一族の大切な心の拠り所だったようで城の鎮守として大切に守護したようだ。妙見菩薩は、北極星と北斗七星を神格化した国家の護りや除災、幸福を招く仏神として崇められてきた。中世武士の千葉氏は、特に親交が深く、一族が新たな土地を得た場合には、その土地にも「妙見」を分霊して祀った。このため、戦国時代に本拠の下総国から武蔵国の淵江(現在の本木周辺)に城郭を構えて本拠地とした武蔵千葉氏一族も「妙見社」を祀った。

   研究会発刊の本

 また、『日本城郭大系』には、小田原北条氏の「小田原衆所領役帳」に千葉殿が下足立淵江に180貫文の役高を有していたと記されている。しかも現地の説明碑文によると、この人物は千葉次郎勝胤とある。勝胤は本桜城の城主であり、どちらにつくかで同族間の争いはあったようですが、千葉勝胤とするのは私は納得しておりません。

 なお、境内の「元木囃子」についての碑文の由来は不明ですが、写真のみ掲載します。

 参考資料:「史蹟 中曽根城跡」の碑、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。