本日は多肉植物の「グリーン玉扇」です。

 

スマホで撮ったら、花が小さすぎてピントボケとなってしまいました。

 

城館談義[8月22日]富山城の戦いは、羽柴秀吉と佐々成政が戦い、羽柴が勝利した

 

 天正13年(1585)8月22日の越中の「富山城の戦い」は、羽柴秀吉と佐々成政が戦い、羽柴が勝利した。この戦いの前の状況と成政の出自について見てみよう。

 佐々氏の家紋

 佐々成政は、天文8年(1539)に源頼朝の御家人である佐々木盛綱を先祖とする上総佐々荘を領有していた土豪の佐々盛政(成宗)の3男として尾張の比良(ひら)村(現在の名古屋市西区)で生まれた。早くから織田信長に仕え朝倉攻めや長篠の戦いなどに従軍した。府中3人衆として佐々、前田、不破の3人で府中2軍を治めた。織田の越中平定後の天正9年早々に、越中の領有を任され富山城に入り、3人衆とともに柴田勝家の与力として、同時に柴田の監視役も仰せつかったと言われている。

 信長亡き後は、徳川家康や織田信雄に属して12年に小牧・長久手の戦いが始まると豊臣に仕える前田利家と戦った。前田と佐々の所領が国境に接していたことで、成政は前田の末森城・鳥越城の攻撃を開始した。ここで有名なサラサラ峠(ザラ峠)を越えが実行(逸話)された。成政は戦いの最中に厳冬のザラ峠(越中と信州を結ぶ抜け道)を越えて浜松の徳川家康に会いに行ったわけだ。しかし、みなさん御存知のように、家康に会った時には信雄が秀吉により籠絡されて単独講和を結んだ後だった。そのため家康も佐々の望む秀吉との継続戦の必要性・大義名分が失われて合戦は終息していた。

 結局、成政はまったくの無駄足・無駄骨となった。しかも継戦を唱える成政が家康に会いに行った事で富山城攻めを誘因してしまう。秀吉は朝廷から、成政の討伐の勅許を得て10万余と言われる大軍を率いて越中富山状に向けて出陣した。迎える佐々勢はわずか2万の兵で22日から籠城戦が始まったが、多勢に無勢で29日に剃髪して降伏・開城している。

この時、秀吉は成政の力量を高く評価していたのか命を助けて越中新川郡のみを安堵して、他は没収した。この後の佐々の働きと出世は通説の通りで、九州攻めの功績を称えられて肥後一国(54万石)を与えられたが、領地の支配や太閤検地を強行したため国人衆の反発をかって一揆が頻発し、最終的には一揆を鎮圧できずに秀吉の支援で抑え込む(一揆勢5500人の死者)も、領国不首尾の責任から所領没収となり、弁明の途上で切腹となる。

 富山城は、現在の富山市丸の内の地に天文元年(1532)、越中の水野越前守勝重(後に神保越中守長職・ながもと)が築城した梯郭式平城だ。別名を安住城、浮城。城は北陸街道と飛騨街道が交わる交通の要衝に、神通川(現在の松川)の流れを利用して造られており、水に浮いているようだとして浮城という別名がついたそうです。

 参考資料:『信長公記』、『東国の戦国合戦』、『機内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館)、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本合戦全集』(秋田書店)、『日本城郭大系』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。