城館談義[7月24日]河股城の戦いは、桜田元親と上杉景勝が戦い、桜田が勝利する

 

 慶長5年(1600)7月24日の陸奥の「河股(かわまた)城の戦い」は、伊達政宗の麾下(旗本・部下)の陸奥の駒ヶ嶺城主の桜田元親が、現在の福島県伊達郡川俣町東福沢字館ノ山にあった上杉景勝の属城・河俣城を攻撃した。

   

  桜田氏の家紋     上杉氏の家紋

 一時は河股城を占拠した桜田軍だったが、上杉軍が援軍を派遣して城の奪還を図るべく戦いを仕掛けてきた。桜田は、一旦は城を捨てて(城を焼いて撤退説も)居城の駒ケ嶺城に帰陣した。実は、河股城の戦いは伊達政宗が同日に攻めかかっていた白石城の攻略戦のための陽動作戦で、上杉勢は政宗に一杯食わされて、その間に白石城は落城している。結果論だが、政宗の勝ちで、家臣の桜田も勝利に貢献したということか。

 河股城は、天正12年(1584)頃に桜田右兵衛尉資親が築いた山城と言われる。城域は1200㍍四方で約90万平方㍍、伊達領の最南端に位置する。本丸を中心に主郭と南郭・西郭・北郭で構成して、東の広瀬と西の田代川が天然の堀の役目を果たしている。

 参考資料:『信長公記』、『東国の戦国合戦』、『機内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館)、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本合戦全集』(秋田書店)、『日本城郭大系』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。