城館談義[3月2日]高遠城の戦い・・織田信忠が武田勝頼と戦い、信忠が高遠城を攻略・勝利

 

 天正10年(1582)甲州征伐に立ち上がった織田勢は武田勝頼と戦い、3月2日に織田信忠を総大将とする織田軍は仁科信盛(盛信)の籠る高遠城を攻略・勝利した。

高遠城址の桜と土塁

 この戦いは、織田信長が信濃国の伊那から武田領に侵攻した戦いであるが、信濃の国衆は織田氏に服従する姿勢を示して矛を収めた。しかし武田勝頼の実弟である仁科盛信は小山田昌成、同大学助、飯島民部少輔ら3000余の兵で高遠城に籠城を決め織田勢を迎え撃った。織田勢は3万余の軍勢で2月23日から城を包囲して3月2日に総攻撃をかけた。多勢に無勢で城兵500余も討ち死にして2日中に城は落城、信盛と昌成は自刃して果てた。

高遠城の太鼓櫓

 高遠城は信濃国伊那郡高遠(現在の伊那市高遠町)にあった平山城で、武田氏が侵攻する以前は高遠氏の居館があったが、天文14年に武田氏に降伏し、天文16年(1547)に武田信玄の命で大改修されたと言われている。兜山城の別名を持っており、月誉山西麓を上手に活用しており、丘陵上に本丸を中心に二の丸、南曲輪、勘介曲輪(腰曲輪)、法幢(とう)院曲輪、笹曲輪などが段階的に配されていた。曲輪は土塁や空堀、石塁を巧みに使った戦国防備の城だった。現在は桜の名所となっている。                     

 仁科五郎信盛(盛信)は、武田信玄の5男であり、武田信玄が安曇郡の名族である仁科氏を滅ぼした後に、武田義信や武田勝頼を兄に持つ信盛に仁科家の名跡を継がした。1581年からは高遠城を任されていた。

 

城館談義[3月3日]須々万沼城の戦い・毛利元就が大内義長と戦い、元就が城を攻略

 

 弘治3年(1557)3月3日に須々万沼(すすまぬま)城を舞台にして、毛利元就が大内義長と戦って元就が城を攻略した。須々万沼城の戦いは、弘治元年から始まった毛利氏による大内氏領の周防や長門領への侵攻作戦であり、防長経略の一環で戦われたものだ。鞍掛合戦(鞍掛城主の杉隆泰が籠城して毛利軍と戦う)に続く大きな合戦だったと言われている。

    

  毛利家の家紋・一文字三つ星     大内家の家紋

 毛利勢は前年の4月から須々万沼城を攻めていたが、抵抗が大きく降伏に至らず一時撤退し、9月に再び軍を進めて城下の町野口で戦ったが、やはり勝敗は決し無かった。そこで弘治3年に入って毛利元就自らが総大将となり、1万余の兵と鉄砲による総攻撃敢行となった。

 迎えた戦いでは、大内氏の家臣の山崎興盛や江良賢宣たちが須々万沼城に籠城。対する毛利軍は城を守る沼を埋め立てて、近づいて火縄銃による打ち込みで城兵の戦意喪失と合わせて3月3日に城内への突入を敢行した。城内に入った領民の男女1500人も斬殺された。江良賢宣は降伏、山崎親子は自害し須々万沼城は落城して廃城となった。

 戦場となった須々万沼城は、室町時代に周防国都濃郡(現在の山口県周南市須々万本郷)にあった輪郭式山城だ。築城者は不明で、須々万盆地の低丘陵地に築かれ、周囲の三方は沼に囲まれた天然の要害だった。城主は山崎興盛父子と言われているが、大内氏が派遣した江良賢宣や宮川伊豆守たちも援軍として共に戦った。また一揆衆の残党なども加わり兵力は1万余説もある。なお、山崎氏は藤原南家を祖としている説が聞かれる。

 参考資料:『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。