茨城県・・・結城市

   結城合戦の舞台、戊辰の役で焼失・・・結城城

 

 結城城は中世の平山城で、JR水戸線の結城駅下車して徒歩20分の茨城県結城市大字結城2486−1周辺の地に寿永2年(1183)、初代結城朝光が源頼朝からこの地を与えられ館を造営した。

実城(本丸跡)

     中城と本丸を区切る堀跡でこの先に土橋があったそうです

 有名にしたのは「結城合戦」の舞台となったことだ。結城氏が合戦の敗戦後は一時廃城となるも江戸時代には結城藩が置かれた。現在は結城城址公園として市民の憩いの場となっている。今回訪ねたのも結城合戦に興味を持ち、結城氏が築城して、半年以上も籠城戦に耐えた城なので、一見の価値があろうと足を運んだ。掘りこそ埋ったり道になったりしていたが、目を閉じるとフツフツと当時の世姿がたが偲ばれ、城好きにはたまらない感触を味わった。

 

南側から見た結城城遠景

   城と合戦

 結城城は、北側に田川、東には昔は湿田で、現在は美田が広がっており、その先には鬼怒川が南北に流れている。小山市側からの舌状台地北東端に位置する。比高は10㍍で、城の西から南側には昔は田川の畔岸等を活用した掘りあげの堀があったのではないか。

本丸跡地

 また現地案内板(写真参照)によると、江戸期の城は実城と中城、東館、西館からなる4区分からなり、お城内部は北東側に消滅した実城(本丸)があったそうで、城址公園側と西館の間には、現在の道路、当時はお堀で土橋がかかっていたようだ。

 実城(本丸)南側はやはり堀切か掻き揚げ堀があって区切られた中城が置かれて土橋で結んでいたようだ。さらにその南側には東館が同じように堀で区切られ土橋で結んでいた模様だ。

  左手は西館跡で右は道路・堀跡。土橋は堀に架かっていた

 合戦では、享徳3年(1454)に勃発した享徳の乱で関東地方が戦国に突入したと言われるが、遡ること約16年前に永享の乱(永享10年・1438)、その後の永享12年に「結城合戦」が勃発し、享徳の乱勃発の要因をつくったと言われる。

東館の土塁跡の一部か

中城土塁跡

 今回紹介する「結城合戦」は、常陸国結城に蟠踞していた結城氏朝(第11代目1402〜1441年)が、永享の乱後に足利義教六代将軍が自分の子を鎌倉公方に就かせようとしたことに反発、4代目鎌倉公方足利持氏(自害)の遺児(春王丸、安王丸、永寿王丸)を擁して結城城(現茨城県結城市)に立て籠もった。氏朝は幕府軍(上杉清方を総大将)に7月29日に城を包囲され約9カ月持ち堪えるも嘉吉(かきつ)元年4月16日に破れて討死・落城した。これが結城合戦の顛末だ。

本丸土塁

 持氏の遺児3人のうち永寿王丸のみ生きて京に送致され、永寿王丸は文安4年(1447)に、足利成氏となり鎌倉公方再興を許され第五代鎌倉公方に就任した。しかし室町幕府と補佐役の関東管領山内上杉憲忠と対立した。

西館土塁跡

 足利成氏は享徳3年、関東管領上杉憲忠の暗殺計画し、同年12月27日に憲忠を鎌倉御所に呼び寄せて暗殺を決行した。ここに鎌倉公方でのちの古河公方成氏派と、上杉派に分かれて約30年間におよぶ「享徳の乱」が始まり関東における戦国時代の幕が開けた。

      城内に建立された聡敏神社、水野家初代・勝成公を祀った神社

 一方、結城合戦で敗退した結城氏朝の4男七郎(のちに成朝・14代目)は、佐竹氏の庇護を受けていたが、足利成氏に取り立てられて念願の旧領結城に復帰する事を許された。秀吉の小田原征伐後に家名繁栄を願って、結城家は徳川家康の次男である秀康を養子に迎えたが、関ヶ原の戦い後に越前に移封したため結城は一時、伊奈忠次関東郡代が支配した天領となり城も廃城となった。

 しかし元禄13年(1700)になって能登西谷を治めていた水野勝長が入封して10代水野勝知まで明治維新まで続いた。この間の同16年(1703)になって結城城の再興が幕府より許可され写真の様な縄張りの築城がなった。結城城は戊辰の役で幕府側に立つ佐幕派が占拠したため、新政府軍に攻められて多くを焼失した。

曹洞宗慈眼院跡・左側に墓所

16代の墓所・霊廟に立つ五輪塔

 なお、結城家16代の墓所は曹洞宗慈眼院跡に残っており、観音様を祀った八尺堂と合わせて一見の価値があるので、結城城に行ったら是非訪ねてください。

奥が観音様を祀った八尺堂

 参考資料:『結城城跡案内板』(結城市教育委員会)、『日本城郭体系』、『結城市HP』、『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)など。