埼玉県・・・本庄市

  関東戦国の始まりの地・・・五十子陣

 

 関東の戦国の幕開けとなった享徳の乱(きょうとくのらん)で中心的な戦場となった五十子陣を新コロナの緊急事態宣言明けの某日に訪ねた。高崎線本庄駅からバスか車で尋ねるのが一般的だが、「天狗茶屋」を目標に尋ねると容易に行き着く。何度も17号を利用しており、しかも天狗茶屋に寄った事もあったのに五十子陣があることを失念していた。やっと現地に立つことが出来ました。

左側が土塁跡か

 関東地方の戦国の幕開けを告げた享徳の乱が始まったのは享徳3年(1454)と言われている。そこから遡ること約16年前に永享の乱(永享10年・1438)、その後の永享12年に結城合戦が勃発し、享徳の乱勃発の要因となっていた。

 右側は陣屋の土塁跡か 奥が女堀川の土手

 永享の乱は室町幕府六代将軍の足利義教の命で、関東管領山内上杉憲実が鎌倉公方の四代目足利持氏を攻めて自害に追い込んだ。結城合戦は結城氏朝が足利持氏の遺児(春王丸、安王丸、永寿王丸・のちの足利成氏)を擁して将軍義教に反発、結城城(現茨城県結城市)に立て籠もった。しかし氏朝は幕府軍に破れて討死落城した。遺児3人のうち永寿王丸のみ生きて京に送られた。

 結果的に足利成氏は生きて第五代鎌倉公方に就いたものの、室町幕府と補佐役の関東管領山内上杉憲忠と対立して初代の古河公方に就く。関東管領の憲忠を暗殺したことで古河公方派と上杉派に分かれて約30年間におよぶ「享徳の乱」を誘発させて、関東における戦国時代の幕が開けられた。

 乱の始まりは鎌倉公方の成氏が、享徳3年12月27日に鎌倉西御門で第11代関東管領の上杉憲忠を暗殺した。その結果、年明けて鎌倉公方と関東管領の間で戦いが始まった。上杉方には12代関東管領の山内上杉房顕、扇谷持朝を中心に相模や武蔵で成氏と戦った。1月21、22日には武蔵の国の多摩川河畔の分倍河原(都下府中市・ぶばいがわら)で行われた戦いで、在京の上杉房顕総大将に扇谷顕房率いる管領側と公方側が衝突した。管領側が破れて扇谷上杉顕房が討死するなど北に敗走して、それを追った成氏は3月3日に下総国古河に着陣して、以後は古河公方となる。

 

  城・陣と合戦

 康正二年(1456)になって上杉側は、児玉党本宗家5代目の庄太郎家長の4男の本庄信明が領(現東本庄の北堀に居館)する武蔵国児玉郡五十子(いかっこ・現本庄市大字東五十子周辺)に「五十子陣」(呼名をいかご・いかっこ)を築いた。

 この地は、本庄台地の最東端で利根川西南地域を支配している上杉側の拠点として、さらに武蔵の南から北西部を縦断して上州に至る大道(後に鎌倉街道)を抑えることで、南は鎌倉まで続き、京への道を確保するためにも五十子に「五十子陣」(呼名をいかご・いかっこ)を築くことは最優先課題でもあった。五十子付近からは前橋や児玉、さらに越後方面への分岐もあり関東管領にとっていかに重要な場所だったか明らかだ。1477年に長尾景春に攻め落とされるまで山内上杉の拠点として活用されていた。

陣内に有ったと考えられる稲荷神社

 現地を訪ねても残念ながら遺構らしきものは皆無であり、本庄市に問い合わせても現地案内板などの設置はこれからの課題と言っていた。あえて言うなら本陣跡に祀られている神殿「稲荷神社」と鳥居が興味をひく。元々は土塁上に祀られていたそうです。五十子古城図から推定した手書きの図面のように国道17号を中心に陣地が築かれ屋敷を土塁で囲み、軍兵の展開用の広場の確保、さらに自然の地形を活かした掻き揚げ土塁で屋敷をぐるりと囲んでいる。

推定の五十子陣図

 いわゆる二重土塁であり、北側には現在の女堀川が自然の堀をなしていた。東側には土塁と小山川を防壁にして土塁を構築している。南側は東から南へと流れる小川を活かした防塁を築いていたのではないか。西側は上杉家にとっての本拠・領有地域だ。

 周辺地域の鬼門除けの神仏では、西五十子にある「大寄諏訪神社」(諏訪大社の大祝である大祝貞継が平将門の乱討伐で出陣で諏訪大社の分霊を祀る)があるが、この神社を室町時代に、関東管領の上杉房顕(深谷城主)が古河公方と戦っているときに五十子に陣を構え、廃れていた大寄諏訪神社を再興したと言われている。また東五十子10番地にある「上若雷神社」の周辺には土塁か堀跡らしき地形が見られる。

大寄諏訪神社本殿

 もう一つの戦いは、文明9年(1477)旧暦1月18日(2月1日)の戦いで、上杉顕定と長尾景春との抗争だ。いわゆる「長尾景春の乱」である。関東管領で武蔵守護の山内上杉の領国支配体制を根底から大きく揺さぶった乱であり、上杉顕定に不満を持つ景春が鉢形城に挙兵して五十子陣に急襲失敗。翌年1月18日に再度五十子陣を攻めて、ついに両上杉を打ち破り上杉顕定は上州那波荘河内(現佐波郡)に敗走。この時上杉方は、主力の上杉正憲と太田道灌が今川氏の内紛仲裁のため駿河におり、寡兵で五十子陣が陥落して顕定が上州に逃げた。これにより五十子陣は解体された。

 参考資料:『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、『日本城郭体系』、『鎌倉大草紙』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『武蔵武士』(有峰書店)など。