埼玉県・・・富士見市

   松山城代で扇谷上杉を支えて奮闘した難波田氏の居城・・・難波田城

 

 難波田城は、東武東上線志木駅下車してバスにより難波田城公園南口下車徒歩7分の富士見市下南畑568−1中心に、難波田小太郎高範が鎌倉時代に築城したと言われている。地勢は、荒川低地の一角に築かれた平城で、約5万平方メートル以上を有した城館だったそうです。現在は平成12年に難波田城公園として城跡の3割程を市が整備しており、城跡ゾーンと古民家ゾーンに分けて市の歴史や文化を学ぶ場として活用しております。ちなみに残っている遺構は郭、土塁、水堀がみられ昭和39年に埼玉県の旧史跡に指定された。

復元模型

 皆さんは難波田氏といえば何を連想しますか。お城のことなのでやはり戦国時代、現在の埼玉県吉見町の松山城での小田原北条氏と上杉朝定勢における攻防戦が連想されたら楽しいのではないでしょうか。

 なかでも攻める北条氏綱方の山中主膳と守る側の上杉朝定方の灘波田憲重(松山城城代)とで交わした歌のやり取り。風流合戦(写真図)は、『河越記』(西脇某作伝)に初見され、当時の武士の教養の高さが伺えるエピソードではと思います。風流合戦の詳細はすでに紹介済みなので省略します。

風流合戦の図 

 城と合戦

 お城は、三重の堀と土塁に守られた平城としてはしっかり造られた堅城だったと考えられ、難波田氏の居城であると同時に扇谷上杉氏の江戸と川越の間を結びつける支城であり、居城のある荒川流域を守ための城でもあったと考えられる。

 そもそも難波田氏は、武蔵七党の村山党に属し、祖先は金子家範の子である小太郎高範と伝わる。高範は、承久の乱(承久3年・1221)で鎌倉幕府方として参戦。宇治川の戦いで討ち死にしており、最初に難波田姓を名乗ったのは高範の軍功により子孫が難波田郷を与えられ、地名を称したと考えられる。当初の居館は荒川低地の自然堤防上で、西は新河岸川に面し、東は緩やかに傾斜した下南畑字山形に造られ、その後現在地に移ったという。

本城門(冠木門)本城入り口

正面入り口の追手門

発掘調査で発見、復元木橋

 難波田九郎三郎は、観応の擾(じょう)乱で難波田南東の荒川沿い行われた羽根倉合戦時に足利直義方に属し、尊氏側の高麗経澄に討ち取られたとある。その後も難波田氏はこの地に累代の居館があったとされる。そして難波田弾正憲重が扇谷上杉氏に従って河越夜戦で討死して難波田氏は没落した。その後は小田原北条氏の支配下で上田左近(松山城主の一族か?)がこの地を治めた。

堀跡

土塁跡

 難波田城を舞台にした戦いがあったかは定かではないが、難波田氏が戦った合戦は多く、特に難波田弾正憲重(善銀)は扇谷上杉氏の重臣として、しかも松山城(現吉見町)の城代とし、さらに深大寺城(掲載済み)の城将をも任されており対北条戦への信頼を勝ち得ている。

角馬出し曲輪

 天文6年(1537)の川(河)越城の戦いでは、憲重は息子や甥を戦死させるほどの激戦だった。扇谷上杉朝定の居た川越城が落城すると朝定を松山城に向かい入れて戦っており、同15年(1546)4月の川越夜戦では、北条家3代目の氏康と戦い、士気の緩んだ上杉川越城包囲陣を氏康は8000人余で夜襲(三大奇襲戦)して、大混乱に陥れて、両上杉と古河公方・足利晴氏の三者連合軍5、6万人の大軍をもっても総崩れとなった。三者連合軍側は、死者13000人とも16000人とも言われる大敗北となる。山内・上杉憲政は上野に遁走して平井城に逃げる。さらに天文20年(1551年)に氏康の攻撃で越後に遁走。扇谷・上杉朝定は夜戦で討死。越後に逃れた憲政は、長尾景虎に家名と家宝を譲って、ここに関東管領上杉謙信が誕生した。

堀跡と土塁跡の一部

 一方、難波田氏は扇谷上杉朝定を助けて善戦するも、朝定は戦死して憲重は夜戦の混乱で東明寺の古井戸に落ちて死亡した。ここに扇谷上杉家と難波田氏は一夜にして滅亡と没落の憂き目に陥った。この後、松山城や難波田城は共に北条氏の手に落ちた。難波田城は、北条方の岩槻太田氏の支配を経て、松山城を預かっていた上田氏が豊臣秀吉の小田原攻めで、北条氏の滅亡とともに難波田城も天正18年(1590)廃城となった。

模型による戦う武士
 参考資料:『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、『難波田城のすべて』(富士見市立難波田城資料館)、『日本城廓体系』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『関八州古戦録』、『河越記』など。