埼玉県・・・鴻巣市

  清和源氏の祖、鎮守府将軍の源経基・・・源経基館

 

 源経基館(城山)は、JR高崎線鴻巣駅より徒歩約20分の鴻巣市大間字城山にある「城山ふるさとの森」にあった館跡と言われており、現在の鴻巣高校南側に位置する。埼玉県と鴻巣市の教育委員会の史跡説明板には、「伝源経基館跡」と表示されている。地元では城山(別名は箕田城、大間城)や浅間山(せんげんやま)とも呼ぶこともあるようで、荒川と逆川の間に広がる大宮台地西端地に東西が95㍍余、南北約85㍍の方形の館だ。南・東・北の3方向を土塁と堀で囲んでおり、西側は荒川の低湿地帯となっていたようだ。堀は東側で約10㍍、堀の深さは3メートル程あり平安中期の居館そのものの造りをなしている。

 源経基は、清和源氏一族の元祖と言われており、清和天皇の第6子の貞純親王の子になる。一族には八幡太郎の名で高名な源義家がおり、嫡子の義親系に為義・義朝と続き、鎌倉幕府を開いた源頼朝につながる。また、義家の弟筋に武田氏が、義親の弟筋に新田氏や足利氏を生みだしている。

北側堀跡

 この居館は、伝がついており、伝承により経基館跡だろうということだ。しかし、昨年春に現地を訪ねてみると、源経基館跡だと言っても良いほど自然の遺構が残されており、当時の面影を感じられる館址と言える。

奥の高地が櫓台跡

 いわゆる足利公方が住んでいた足利館と同じような方形の館であり、戦国以前の館がこの地に有ったのかと想像しただけで楽しくなる場所でもある。ぜひ、城館好きの方は一度は訪ねていただいたらと思います。昼時でしたら、館跡北側で鴻巣高校東北側にある蕎麦屋さんの「いちい」の天ぷらそばは最高ですよ。

   館と合戦

 埼玉県指定史跡となっている経基館は、天慶元年(938)に経基が武蔵介として板東に赴いた時に居館とした場所であると伝わる。昭和62年に始まり数度の発掘調査が行われたが、建設当時の時期を示すような遺物は見つからず年代も経基の館であるという事も明らかにする事は出来なかったそうです。

 館跡の伝承の元となったのは、『将門記』に、源経基や武蔵権守興世王が武蔵武芝(足立郡司判官代)との抗争時に、妻子を連れて狭服山(比企郡など複数候補地あり)に登る(経基之営所)との記述が有ったためにここではないかとの伝承が生まれたようだ。この他に『新編武蔵風土起稿』にも館跡を想起させる記述が見られ、伝承が作られたのではないか。なお、現地は平成6年に所有者が史跡公園保存を条件に市に寄贈。

 館跡には、経基が名乗っていた六孫王を記念して館跡西側の高台に六孫王の記念碑が建てられている。六孫王は、延喜17年(917)、清和天皇の第6皇子・貞純親王の長子であり、6番目の皇子の孫なので「六孫王」と呼ばれたという。

六孫王の碑

 六孫王が、現在の鴻巣市に関わったのは、天慶2年に武蔵権守興世王と一緒に武蔵国に下向したが、中央(朝廷)からの貴族の派遣に抗議・反乱した武蔵武芝らとの抗争に巻き込まれた。この時は、平将門が介入・和睦するが、その後に平将門が武蔵権守興世王と手を結び、中央から派遣されている国司武蔵守百済王貞連に対し謀反を企てた。経基は京に帰り将門謀反を朝廷に告訴したが誣告罪で罰せられた。

 後にこの告発が認められ天慶3年に将門追討軍の副将軍に就き坂東に出向く。さらに藤原純友の乱で追捕南海凶族使次官として活躍。この後、国守は下野介、上野介、信濃守、伊予守などを歴任。後に鎮守府将軍となり、正四位上大宰大弐。源朝臣の姓は応和元年(961)に朝廷より賜り、同年45歳で没した。武蔵での事績で、横瀬町の長者屋敷居住説や峯ヶ岡八幡神社(川口市)創建など経基に関係する伝承が聞かれる。

 参考資料:「伝源経基館跡説明板」(埼玉県・鴻巣市教育委員会)、『日本城郭体系』、『埼玉の館城跡』(埼

玉県教育委員会)など。