千葉県・・・野田市
3度の関宿合戦の場、利根川水系の要衝地・・・関宿城
関宿城は、利根川と江戸川に挟まれた現在の野田市関宿三軒家143−4付近にあった室町時代に築城された平城で、現在の関宿城博物館付近にあった関宿城は、徳川家康が関東に入国後に移封された異父弟の松平康元が始まりだ。長禄元年(1457)に古河公方家臣の簗田成助(やなだしげすけ)=持助の子)が下総国の関宿に築城したとの説が有力だが、一部には簗田満助(やなだみつすけ=良助の次男)説もあり、『日本城郭体系』では簗田河内守成助築城説を記している。長禄元年といえば、太田道灌が江戸城を築城した年でもある。現在の関宿城博物館はスパー堤防上に建設された江戸城の富士見櫓を模した三重4階の模擬天守だ。交通アクセスは、東武アーバンパークライン(野田線)川間駅下車してバスで城博物館まで32分など。遺構は関宿城の南の門で、明治4年の廃城令で野田市東高野94に移築された関宿城埋門(うずめもん=)と城門と言われる薬医門が逆井城、市内関宿台町の実相寺客殿が本丸新御殿として一部現存する。あとわずかに城跡の碑周辺に土塁らしきものなどがある程度だ。
城と合戦
現在の関宿城の位置関係は、東と北、西と3方向が利根川と江戸川に挟まれており、南が開けた千葉県最北端の低い台地に築城されている。本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪、天神曲輪で外郭に家臣団の屋敷が置かれた。ただし室町時代の簗田氏が築城した時代と異なる。徳川家康が関東入国後に、伊奈備前守忠次・忠政・忠治などが進めた利根川東遷事業により、元和7年(1621)に赤堀川の開削でこれまでの常陸川に注ぐ流れが大きく東に移動した。そして江戸川の取付口も東に移されたことやその後の洪水などで簗田氏築城時と地勢は大きく変化している。しかし利根川水系の要地で関東・武蔵の水運を押さえる拠点であることは変わっていない。
城を築いたといわれる簗田成助は、古河公方の重臣だった簗田持助の子であるといわれているが、成助の父親の簗田持助とは何者だろうか。足利成氏の重臣(奏者)で応永29年(1422)生まれの武将。満助の子で中務少晡、河内守を授かり、鎌倉幕府の有力御家人として仕え満助の時に有力御家人となる。康正元年(1455)に室町幕府の将軍である足利義政の討伐を受けて、鎌倉公方足利成氏が古河への移座にあたり、持助は先陣を務め北関東の制圧に貢献して下総国関宿に居を構えて、関東管領山内上杉に対抗した。文明14年(1482)4月6日没、61歳だった。
さて成助の築城となった関宿城だが、戦国期は利根川水系の要衝であり、関東の中心地域にあることで戦国末期には関東制圧を目論む北条氏康とその子の氏政(氏康の2男)・氏照(氏康の3男)父子との戦いが勃発した。持助の跡を継いだ4男の政助の嗣子の、高助の子の簗田晴助が上杉謙信や佐竹義重の支援を受けて小田原北条父子との戦いに挑み、3回に渡って関宿城を攻撃して最後は北条氏が勝利して北関東への進出に足場を固めた。
いわゆる「関宿合戦」であり、第1次合戦は永禄8年(1565)3〜5月に勃発した北条氏康・氏政父子は簗田晴助の居城である関宿城を急襲した。約2カ月の攻防を経て氏政と和睦するも、最終合意にはいたっていない。この時期、晴助は甥の相馬整胤(まさたね)の治めていた守谷城の人事に介入して整胤の義兄の高井治胤と共謀して親北条派の重臣を排除した。また整胤が晴助の支援を得て治胤を排除しようと計画した事で、逆に整胤が治胤に殺害され、高井治胤が相馬氏の当主に収まった。第2次合戦は晴助が家督を子の持助に譲った翌年の永禄11年(1568)に氏康が氏政・氏照(八王子城主)に関宿城攻めに向かわせたが、持助はかろうじて持ちこたえていた。その一方で永禄12年に甲州・相模・駿河の3国同盟を武田信玄が破棄して駿河侵攻の実施。氏康は止むを得ずと上杉との越後と相模の同盟を模索。信玄はこれに対し西上野衆に北条氏領の北武蔵侵攻を命じた。これにより双方とも休戦に入り城の現状維持と足利義氏の古河への復帰が合意して合戦は終了した。
しかしこれで終わらないのが戦国であり、合戦の背景にいる里見氏や佐竹氏が反北条派として反発し、簗田晴助と共に足利藤政を担いで武田氏と同盟を結んだ。直後に北条氏康が死去して甲相同盟が復活して、北条、武田、上杉を敵に回すことになった。その結果、第3次合戦が天正2年(1574)に北条氏の攻撃で始まった。約1年近く戦うも上杉(和解工作で)や佐竹氏の支援は実を結ばず、年末11月19日に家臣の裏切りや食糧や弓矢・弾薬不足でやむをえず佐竹氏の仲介で関宿城の引渡し条件で降伏し、支城の水海城へ追放(足利藤政は簗田父子の助命と引替で自刃)された。第3次合戦後の関宿城であるが、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻め前後には簗田氏が再び北条側の城主として復帰していたと考えられている。
徳川家康の関東入府以降は、大きな河川が集中する場所として軍事的にも経済的にも重要な位置を占め、江戸時代を通じて関宿藩は譜代大名が配置され、4人の老中を輩出している。初代は家康の異父弟の松平康元(久松)が2万石で配されその後4万石で子の忠良に。その後、松平家(能見)、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野、久世と続き、最後の久世家は8代目の広業で廃藩となった。久世8代の変遷では久世重之が老中としての功績から1万石加増されて6万石。万延元年には6万8千石までに成るが、第7代目の広周の時、老中としての公武合体や井伊直弼への対応、外交の失政などで4万8千石に減封。さらに明治元年に新政府に敵対して減封で4万3千石。明治4年に廃藩となる。
*観光スポットは、鈴木貫太郎記念館、関宿城博物館、関宿関所跡、山崎貝塚、高梨氏庭園、旧花野井家住宅など。*食グルメ情報:道の駅こが、けやき茶屋、喜むら、もちもちの木野田店、コメ・スタ野田市店など。参考資料:『日本城郭体系』、『現地案内説明板』(野田市)、『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『藩史総覧』など。