山梨県…都留市
谷村城と陣屋跡・・武田勝頼をだました小山田出羽守信茂の居城と天領支配の陣屋


市役所敷地内にある谷村城の絵図
谷村(やむら)城は戦国時代に現在の山梨県都留市上谷1丁目付近に小山田越中守信有が天文年間(1532~)に築いた平城と言われている。城は、甲斐の国東部の郡内地方を領した小山田氏の居館であり、別命を谷村館。館の裏に有る勝山城は非常時の要害城、詰めの城と考えられる。

城跡に建つ第一小学校
現状は谷村第一小学校と都留市役所がある場所で、江戸時代には徳川家康側近であり日光東照宮造営奉行の秋元泰朝が、上州惣社(現在の前橋市)から郡内領の管轄する谷村藩に転封して、昔の小山田氏館跡に新たに居館として谷村城を築いたとされる。交通アクセスは富士急大月線谷村町駅から約230㍍で徒歩約3分。
また、谷村(やむら)陣屋は、現在の山梨県都留市上谷1-1-2付近にある裁判所都留支部の場所付近が陣屋跡だ。

今回の城攻めでは、都留市内に有る「より道の湯」(炭酸泉)に浸かりたくなって、ついでに城攻めをしたもの。温泉も楽しめて、熊被害も無くて楽しめました。
城と合戦
谷村城は、甲斐国東部の郡内地方を領有した国衆の小山田氏の居館であり、別命を谷村館とも言われている。城は蟻山と桂川に挟まれた狭隘な平野部で、山梨県東部と郡内地方の中央部に位置する。交通的には甲州街道から分岐した吉田地方に通じる富士道が南北に走っている交通の要衝だ。
近年では東京と大阪を約1時間で結ぶとされる近未来の交通機関であるリニアカー(磁気浮上式)の、山梨県立リニア見学センターが都留市小形山に設地され、見学者に人気だそうです。

谷村城の現地絵図を参考に縄張を見ると、要害(詰城)の勝山城(後日掲載予定)を北に背負い、都留市役所から都留市立第一小学校付近に比定されていたようだ。小学校付近に本丸を中心に配置され、詰城に上がっていくための広い武者だまり・馬出的な南側の郭が土塁で囲われており、内橋を渡って勝山城へと昇る。
本丸の右側に土塁を挟んで二の丸、また土塁を挟んで三の丸と東側に配置されていたようだ。城の南側(現状の道路を挟んで)には武家屋敷や向お屋敷などが配置されている。
谷村城・館を支配していた小山田氏は、都留地域の有力国人であり、長く大幡川左岸の中津森(田原郷説も)を基盤に活動していた。そして甲斐の守護である武田信虎や駿河の今川氏、相模の小田原北条氏との抗争に明け暮れていたが、永正15年(1518)になって北条を除く3者の間で和睦の後に、信虎の妹を妻に迎えて武田氏に従属した。
一方、武田信虎は永正16年(1519)までに甲斐を統一して甲府の古府中に本拠地を移動させた。同時に城下に家臣団を居住させ、小山田氏も甲府に居(中津と併用した)を構えて信有夫人(信虎の妹)を住まわせた。
谷村への移転は天文元年以降で、享禄5年(1532)に居館が完成したとの説が聞かれる。そして武田氏重臣として越中守信有、出羽守信有、出羽守信茂まで谷村を支配してきた。信茂は武田二十四将の一人でもある。

しかし、天正10年(1582)3月11日に武田勝頼が織田・徳川連合軍の討伐戦に敗れて、天目山の露(現在の甲州市大和町田野で自害)と消えてしまった。
自害の発端は、武田家臣の離反の中で勝頼は、新府城を焼き払って小山田信茂を頼って落ち延びようとしたが、何と信茂までが裏切った。郡内領への逃走・退避戦の最中に、信茂は突然、勝頼から離反して鉄砲を向けたとされる。追い込まれた勝頼は田野において滝川一益隊と最後の戦いに臨み、嫡男の信雄や北条夫人(小田原北条氏の娘)達とともに自害して果てた。これが小山田氏の自領の保全・維持という黒歴史で、結局は信茂も織田信長に3月24日に処刑されている。

徳川家康が創建の景徳院にある勝頼たちの墓所

甲州市「武田勝頼の墓」調査報告書より

勝頼の首洗いの滝(甲州市)
手元の『甲陽軍鑑』によれば、勝頼一行は小山田氏の迎えを鶴瀬で7日間待っていた。信茂は郡内領の道を閉鎖して、勝頼たちに木戸から郡内に退避するよう呼びかけた。その後に勝頼たちに虎口(木戸か)から鉄砲を放ったとある。
〇谷村陣屋
谷村陣屋(やむらじんや)は、山梨県都留市中央にある陣屋の史跡。現在の甲府地方裁判所都留支部には「谷村陣屋跡」の石碑が立っている。
この陣屋は、都留市の1996年発刊の「通史編」(都留市史編纂委員会)などによると、宝永元年(1704)12月に秋元喬朝が武州川越に転封したが、後任の移封が無く都留郡は御料所となったことで、谷村に代官所が設置された。また御料所は甲府の柳沢吉保の預かり地となり約20年間続いた。
その後、享保9年(1724)3月に柳沢氏が大和郡山に転封となり、都留郡は甲府勤番支配と代官支配(石和・甲府・伊豆韮山の代官)による天領時代が明治元年までの144年間勘定奉行の支配下で、城下町から天領と体制が長く続いたという。
参考資料:「谷村城説明版」(都留市教育委員会)、「甲州谷村城絵図」(都留市教育委員会)、『甲陽軍鑑』(人物往来社)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。