山梨県・・・身延町

菅沼城・・・徳川家康の北条氏の甲斐領有をを牽制するなどの目的で築城

 

 菅沼城は、山梨県南巨摩郡身延町寺沢3250付近(旧中富中学校跡)に徳川家康の命により岡部次郎右衛門正綱が築いたと言われる平山城だ。

 この城は天正10年(1582)6月に起きた「本能寺の変」の直後に、徳川家康が武田氏滅亡により大きく変わる甲斐の軍事・政治状況に備えて家臣の岡部氏に築かせた。

 とくに相模の小田原北条氏の策動と甲斐の領有をめざす動きを牽制する目的および河内道(身延道=52号線)と河内地域の押さえとして急遽築城させた。このため寺沢城とも切石砦ともいわれている。

  旧中富中学校跡が城館跡と言われている

 残念ながら菅沼城は築城から約10年で廃城となったことや、跡地に旧中富中学校を建設したこともあり城の面影はほとんど確認し難い。旧校舎前にある菅沼城址の石碑が大きく構えているのが寂寥感を漂わせていた。交通アクセスは身延線久那土駅下車して4・9㎞、1時間10分くらい。

 

    城と合戦

 菅沼城の詳細は不明であるが、城郭は東西約180㍍、南北約144㍍で、東側は絶壁を成し、絶壁と富士川の間を身延道が通っていた。天正18(1590)年に菅沼定政が下総の守屋(守谷)に移封したのちの慶長7(1602)年に取り壊された。現在は旧中富中学校敷地でドローン教習所として利用されている。

  広い地域は運動場で、現在はドローン教習所

 身延町のHPには、町指定史跡として菅沼城跡が掲載され、そこでは「富士川に着き出した台地上にある菅沼城は、天正10年(1582) 6月の本能寺の変の直後に、甲斐の領有をもくろみ徳川家康が武田氏旧臣の、岡部正綱に命じて築かせた城である。河内領主穴山梅雪が山城国綴木郡田辺町(現在の京都府綴喜郡宇治田原町)で落命(本能寺の変でのおりに、堺から領国に帰る行程で落ち武者狩りにより殺害される)したため、穴山氏の支配地域の河内路を押え、相模の北条氏の侵入に備えるものであったと記載されている。

  左側が切岸で堀跡が道路か?

 城は、美濃土岐氏庶流で明智氏一族の菅沼定政(文禄2年・1593・家康の命で名字を土岐に改める)が守備したことから菅沼城と呼ばれる。この菅沼氏は、明智一族で土岐郡明智の地侍・土豪で母が菅沼定広の娘、天文21年の斎藤道三との戦いで父親が討ち死にして離散したが、家臣により母方の菅沼氏を頼って三河に逃れた。

 定政は永禄7年(1564)の14歳の時に徳川家康に近侍した。『寛政重修諸家譜』には、「寺部城攻め」を初陣に、「掛川城攻め」、「姉川の戦い」、「三方ヶ原の戦い」、「天野景貫との戦い」、「長篠の戦い」、遠江への侵攻、「小山城攻め」で武功を挙げて天正10年(1582)に甲斐国切石で1万石を拝領する。その後も「小牧の戦い」、第1次「上田合戦」において功績を挙げ、天正14年の家康と秀吉の和睦と上洛時には浜松城の守備を任される。

 天正18年の秀吉の小田原征伐では、家康に従い従軍して、小田原城落城後には関宿城を守護し、同年(1590)9月に下総の相馬郡守谷(守屋)で1万石を拝領している。

 なお、菅沼城は慶長7年(1602)に廃城したと伝わる。中学校の建築時には本丸の北面の土塁や西端の堀切、のろし台跡や南面山腹の帯郭などが調査され多そうです。

 参考資料:『山梨県の中世城館跡』(山梨県教育委員会)、『寛政重修諸家譜』、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

○わが家のお花だより

  睡蓮

  ばら

 

山梨県・・・身延町

波木井城・・・久遠寺の創建者、武田信虎を裏切り滅ぼされる

 

  波木井城址顕彰之碑

 波木井(はきい=はきり)城は、鎌倉時代の御家人である南部実長(波木井実長=さねなが)が身延山東麓の標高300㍍ほどの台地上の、現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井に築いたと伝わる山城だ。土門に土塁跡らしきものと一段高い場所の鉄塔のあるところが本郭跡ではないかとされる。

 波木井実長は、久遠寺の開基・創建したことでその名を残しており、波木井実長の館跡説明板や城跡入り口には実長さんの供養塔が鎮座しております。

  城址碑

 この城が注目を集めたのは大永年間に、今川氏家臣が攻め寄せてきたときに、武田信虎に与していた波木井義実は今川方に通じて、のちに信虎によって攻め滅ぼされたと伝わる。

山城だけに、城跡へ一歩足を進めていくと、目には獣の捕獲用罠・檻が設置されており、熊か猪など猛獣注意を促している。くわばら、クワバラ。ちなみにクマは「唐辛子」が大嫌いと聞きました。熊避けのツール利用も有りかな!!

  獣用の罠檻が設置されていました

 そんなことで取り急ぎ写真撮影して早々に撤収しました。交通アクセスはJR身延線身延駅から約3・8㎞、徒歩では約1時間かかります。車で10分足らずで着きますが。

   波木井城周辺概要図

  段々畑が城址の雰囲気を醸し出している

  土塁と堀跡(通路)

   城と合戦

 波木井城は、富士川西岸の身延山東麓の山の上の一画に築かれており、北を深沢川、南を虹川の深い渓谷に挟まれた天然の要害だ。城への登城路は県営波木井団地や坂下団地、神之平を進んで古屋敷を右手に標高で346㍍の頂を中心に築かれている。直前までの一帯は畑や宅地で、城の石碑と案内板がある場所が道路の行き止まりで、その先が城域だ。

  本格跡と伝承される

  本格跡周辺の掻き上げ土塁か

 鉄塔のある場所付近に本郭があったとされ、西側に二の曲輪、周りを切岸とかき揚げ土塁で防備を固めている。鉄塔の東下側に三の曲輪と四の曲輪(もしかすると帯郭)、北側に2段下がって五と六の曲輪(城址碑のある場所)が配置されている。

  本郭脇(左側奥に切岸か土塁)の削平地・曲輪跡か

  本郭周りの土塁跡

  枯れ草のある奥は、かき揚げ土塁と堀に囲まれた曲輪跡か?

 築城年代は今ひとつ定かではないが、『甲斐国誌』によれば南部行光の3男南部実長が築いた城とされている。ただし、実長の館はここから離れた梅平集落南側の山裾にあった波木井氏館ではとされるため、本当に実長が築いたのか疑問が持たれている。

  左側の高台は櫓跡か?

   上の畑地(土塁か切岸)との仕切りとなる堀跡か

  良き見ると右手前は帯郭跡か

 波木井城は、波木井の地名に築かれたことから名付けられ、南部の氏も同様に波木井を名乗ったと考えられる。実長を祖先とする波木井氏と波木井城が歴史上に名を残すのは、大永年間(1521年〜1528年)に駿河の今川氏の武将である福島正成が甲斐へ攻め入ったときだ。

 波木井実長の末裔にあたる波木井義実波木井城主は、義実は今川氏に通じて武田信虎を裏切っている。これに激昂した信虎に攻め滅ぼされてしまい城も廃城となったという。現地の説明板には「波木井の峯の城」がすなわち、この波木井城址であると伝えている。

 ちなみに城を築いたのではないかと言われる南部実長は、鎌倉時代中期の御家人で、日蓮の有力な壇越(だんえつ=旦那衆)として、日蓮宗総本山の身延山久遠寺の創建に力を貸した人物だ。

父親は源頼朝に従い「石橋山の合戦」に参戦した南部光行で、3男の実長は光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にあった波木井郷(現在の身延町梅平一帯)を割譲されて一家を立てて地頭職を兼務した。日蓮との接点は、文永6年(1269)頃に日蓮の辻説法に感銘して帰依したとされる。

 なお、奥州で活躍した一戸行朝が光行の長男で、次男実光が三戸南部氏、3男実長は八戸氏(実長の嫡子の実継が)、4男朝清が七戸氏、5男宗清は四戸氏、6男行連が九戸氏の祖となっている。

 参考資料:「波木井城址説明板」(身延町教育委員会)、「身延山久遠寺のしおり」(身延山久遠寺)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

 

山梨県・・・身延町

下山城・・・武田氏重臣の穴山氏館跡、歴史を今に伝える遺構は空堀跡のみ

 

   城址の周辺図

 下山城(穴山氏館)は、穴山氏の館跡で、現在の山梨県南巨摩郡身延町下山2271 の本国寺のある場所が城域とされている。穴山氏が館を構える前は、この場所には加賀美遠光の子の秋光朝の子孫が下山邑(ゆう)領主として来住したのが始まりであり、下山氏の本拠地であったとされるために下山城と言われたのではないか。

  旧北小学校(昔の初等学校)の庭の隅に説明板が

  長栄山と描かれた扁額を掲げる本国寺

 穴山氏館跡には日蓮宗本国寺が創建されており、城館跡としての雰囲気は感じられるものの、遺構となると本国寺を正面に見て右側の保育園脇の竹やぶの空堀跡のみと残念なくらい少ない。

  本国寺の山門

 今回の訪問では、JR身延線波高島(はだかじま)駅を下車して2・6㎞で徒歩約36分。遺構を探すのに周辺住居の方にお願いして、お庭を利用させていただき、いざ竹やぶとなりました。幸いにも写真の通り、空堀跡の確認と写真を何とか撮影できました。

 

    城・館と合戦

 下山城(穴山氏館)は、国道52号線の沿線の一画の民家の間の道路・通路を入ると本国時山門に向かって正面右側に下山城跡碑があります。そして左側の小学校跡の校庭の一画(道路側)隅に「下山城跡」の説明板が設置されております。説明板は見やすい道路・通路側に背を向けておりますので探すのに苦労しました。

  唯一残る保育園東側の堀跡

 下山城は、富士川の西岸、栗倉山麓に広がる下山集落に甲斐源氏の下山氏が築いた城という。現地説明板によると、始めは鎌倉時代に甲斐源氏下山光基の館であり、戦国時代に入ってから穴山氏の居館となったと記載している。

 『甲斐国志』には土塁や堀の痕跡が記録されているそうです。現状を見ても竹やぶまで入っていくと明確に遺構が残っておりました。時代背景から、居館は方形の館と考えられるが、現状の本国寺や学校跡などから想像しても、かなり広くて大きな館だったと想像できます。また、江戸時代の「下山村絵図」には、館跡は南北を河川に挟まれ、本国寺境内と河内路を二重の土塁で囲んでいたとされる。

  左側が堀跡で真ん中から右は土塁跡

  堀脇にあった祠は何を語る?

 一方、本国寺の寺の説明板には、最蓮房日浄上人が開山し、開基は下山兵庫介光基で建治3年(1277)に創立されている。甲斐源氏加賀美遠光の孫光重は、建仁年間(1201〜4)に下山に入部して下山小太郎光重と称した。

 室町時代に入り、応永25年(1418)の頃、武田氏の一族・穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居館を構えた。寺と穴山氏の関係は深く、境内にある穴山八幡神社は、穴山信君(梅雪1541〜82)を祀っている。

  下山村絵図の拡大図

   残った堀えと続く現在の堀か?

  城跡の正面を南北に走る52号線

 穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武が逸見郷の穴山の地(韮崎市穴山町)に封を得て穴山氏を名乗った武田氏の一族だ。武田氏と今川氏との国境紛争が安定した穴山信友の代に下山に館を移して以来、信友、信君(梅雪)、勝千代の3代が居住したと考えられている。天正15年に穴山勝千代夭死して子孫断絶で城は廃された。

 なお、穴山氏の戦国期の活躍(軍事と外交で活躍し、今川氏領国の駿河に精通)や明智光秀の謀反「本能寺の変」のおりに徳川家康の「伊賀越え」に同行せずに別行動した結果、宇治田原(京都府宇治田原町)において落ち武者狩り(一揆勢か?)に有って殺害された。

 ちなみに梅雪は、武田家の最後の当主となる武田勝頼を小山田信茂と穴山梅雪で裏切(織田・徳川方と内通)っており、不忠者として不名誉な最後を遂げたとも言える。

 参考資料:「下山城跡説明板」(身延町教育委員会)、『長栄山本国寺説明板』(身延町、身延町教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

○わが家のお花だより

 ♪ばら3点

♪クレマチス

♪アザレアとオランダツツジ