栃木県・・・栃木市

皆川四郎左衛門尉宗員館・・・鎌倉幕府御家人の皆川氏が居館とした初期の館跡

   館の有った場所に建つ皆川公民館、左側が土塁跡

 皆川四郎左衛門尉宗員館は、鎌倉時代に現在の栃木県栃木市皆川城内町628にあった皆川氏の初期の館跡だ。現在地は皆川城を北側に背負った平地で、屋根が白い皆川公民館と駐車場のある場所だ。

  館西側の厳島神社の鳥居・参道、上がると皆川城へ

 白山台(はくさんだい)と言われる場所のようだが、遺構としては西側に大きな土塁の確認ができるが、館跡などの遺構は確認できない。交通アクセスは、JR両毛線、東武日光線の栃木駅から徒歩で約5㎞、1時間15分程かかる。

 

    館と合戦

 この館は、下野を地盤とした小山政光の子の長沼五郎宗政の孫の宗員が、寛喜年間(1229~32)に皆川の地に居を構えたので皆川氏を名乗ったのが始まりと言われている。館の規模は東西×南北それぞれ200㍍程で鎌倉から室町期に多く見られた方形の館だったと考えられる。

   館西側の土塁跡

 皆川氏は藤原秀郷の流れをくむ小山政光の系統で、宗政の孫にあたる宗員が皆川を名乗ったのが初めてとすれば、藤原北家で小山氏の支流で、長沼時宗の子の宗員であり鎌倉幕府の御家人となっているが、鎌倉末期の元享3年(1323)宗常(宗員から数えて6代目)の時に、北条高時に叛いてお家断絶となっている。

   左側が空堀で樹木が茂る上側が土塁

 しかし、宗員の弟である宗康(宗泰?)の子孫が会津から、長沼完成(宗康から12代目)がこれまでの長沼から皆川を称して永享元年(1426)に皆川城に拠ってたった。そこから4代目の広照は、徳川家康に仕えて元和9年(1623)に常陸府中藩(現在の茨城県石岡市)を1万石(後に3000石加増)で立藩した。子孫は無嗣で断絶も子孫(?)は旗本で再興されたとされる。

   駐車場脇の西側土塁

 極小藩の皆川藩を立藩した広照は、天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐の時、小田原北条氏の属将だったが、家康に謁見して臣従し、首の皮一枚を残して本領を安堵された。その後、松平忠輝の傅臣となって皆川3万石から信濃飯山に移封して4万石加増され7万5000石を得て飯山藩主に。しかし、広照は慶長14年に忠輝の不行跡を家康に報告し、勘気を受けて徐封されている。

  宗員館の空堀から続く皆川城の西側空堀

 参考資料:『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『藩史総覧』、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

山梨県…都留市

勝山城・・・城山公園として整備、武田信玄重臣の小山田氏の詰城・要害城

    勝山城のジオラマ・ミュージアム都留 

        勝山城縄張・配置図

  桂川を挟んで南岸に谷村館

 勝山城は、『甲斐国志』によると文禄3年(1594)に浅野長政の家老の浅野左衛門氏重によって標高571メートルの現在の城山に築かれた山城だ。しかし、近年は小山田越中守信有が中津森から谷村に移転した時に詰城・要害城として築城したとされるようになってきた。

  左側に内堀

  二の丸跡

  三の丸跡

  城山は周囲3.5㎞の独立した山で、頂上には現在は東照宮が創建され、上からの眺めは都留市街地を一望できる。地元では登城口から約20分と手軽に登れる「お城山」と呼ばれ親しまれています。

  帯郭跡

 城は現在の山梨県都留市川棚の城山一帯で、城山公園として整備されている。武田信玄の24将の一人である小山田氏の居館谷村館・城の詰城として活用された。

城の遺構は曲輪や土塁跡が確認できます。交通アクセスは富士急行谷村町駅下車、徒歩で約30分。

  虎口は2カ所見られました

 虎口と同様に怖いのが熊の出没です

 

  城と合戦

 勝山城は現在こそ桜の名所として整備されておりますが、築城されたのは都留市谷村の桂川を防衛ラインとする対岸の独立峰の城山だ。前回紹介している谷村城が常の館で、勝山城は戦時の山城である。山すそを桂川が半周するように北東から北西に流れており、南から西は幅約30㍍の堀で堅守している。ちなみに西側の尾根続きを分断する堀が中央高速道で切断されている。

  本丸跡

   東照宮は山頂部で本丸跡に祀られている

 本丸は東照宮のある山頂部で、その南側に二の丸、三の丸と続き、尾根を下ると川棚見張台へと続く。本丸と二の丸の東側に帯郭を備え、本丸から三の丸を下る北から西、南までの3つの郭の切岸には内堀が繋がって敵の侵入を妨げている。また、本丸を北に下ると幕府献上用の茶壷蔵・貯蔵所跡が推定される。煙硝蔵は本丸から東に少し降りた尾根上にある。

  本丸の切岸

  川端見張台跡

  本丸から都留市街を望む

 ところで勝山城は、谷村城のところで紹介したように、宝永元年(1704)に谷村藩主の秋元氏が川越藩に転封したことで、天領となり廃城されている。

   城の説明文看板

 参考資料:「都留市HP・城山」(都留市商業観光課)、「ミュージアム都留」(都留市)、「史跡勝山城跡説明版」(山梨県教育委員会、都留市)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

山梨県…都留市

谷村城と陣屋跡・・武田勝頼をだました小山田出羽守信茂の居城と天領支配の陣屋

   市役所敷地内にある谷村城の絵図

 谷村(やむら)城は戦国時代に現在の山梨県都留市上谷1丁目付近に小山田越中守信有が天文年間(1532~)に築いた平城と言われている。城は、甲斐の国東部の郡内地方を領した小山田氏の居館であり、別命を谷村館。館の裏に有る勝山城は非常時の要害城、詰めの城と考えられる。

   城跡に建つ第一小学校

 現状は谷村第一小学校と都留市役所がある場所で、江戸時代には徳川家康側近であり日光東照宮造営奉行の秋元泰朝が、上州惣社(現在の前橋市)から郡内領の管轄する谷村藩に転封して、昔の小山田氏館跡に新たに居館として谷村城を築いたとされる。交通アクセスは富士急大月線谷村町駅から約230㍍で徒歩約3分。

 また、谷村(やむら)陣屋は、現在の山梨県都留市上谷1-1-2付近にある裁判所都留支部の場所付近が陣屋跡だ。

 今回の城攻めでは、都留市内に有る「より道の湯」(炭酸泉)に浸かりたくなって、ついでに城攻めをしたもの。温泉も楽しめて、熊被害も無くて楽しめました。

 

    城と合戦

 谷村城は、甲斐国東部の郡内地方を領有した国衆の小山田氏の居館であり、別命を谷村館とも言われている。城は蟻山と桂川に挟まれた狭隘な平野部で、山梨県東部と郡内地方の中央部に位置する。交通的には甲州街道から分岐した吉田地方に通じる富士道が南北に走っている交通の要衝だ。

 近年では東京と大阪を約1時間で結ぶとされる近未来の交通機関であるリニアカー(磁気浮上式)の、山梨県立リニア見学センターが都留市小形山に設地され、見学者に人気だそうです。

 谷村城の現地絵図を参考に縄張を見ると、要害(詰城)の勝山城(後日掲載予定)を北に背負い、都留市役所から都留市立第一小学校付近に比定されていたようだ。小学校付近に本丸を中心に配置され、詰城に上がっていくための広い武者だまり・馬出的な南側の郭が土塁で囲われており、内橋を渡って勝山城へと昇る。

 本丸の右側に土塁を挟んで二の丸、また土塁を挟んで三の丸と東側に配置されていたようだ。城の南側(現状の道路を挟んで)には武家屋敷や向お屋敷などが配置されている。

 谷村城・館を支配していた小山田氏は、都留地域の有力国人であり、長く大幡川左岸の中津森(田原郷説も)を基盤に活動していた。そして甲斐の守護である武田信虎や駿河の今川氏、相模の小田原北条氏との抗争に明け暮れていたが、永正15年(1518)になって北条を除く3者の間で和睦の後に、信虎の妹を妻に迎えて武田氏に従属した。

 一方、武田信虎は永正16年(1519)までに甲斐を統一して甲府の古府中に本拠地を移動させた。同時に城下に家臣団を居住させ、小山田氏も甲府に居(中津と併用した)を構えて信有夫人(信虎の妹)を住まわせた。

 谷村への移転は天文元年以降で、享禄5年(1532)に居館が完成したとの説が聞かれる。そして武田氏重臣として越中守信有、出羽守信有、出羽守信茂まで谷村を支配してきた。信茂は武田二十四将の一人でもある。

 しかし、天正10年(1582)3月11日に武田勝頼が織田・徳川連合軍の討伐戦に敗れて、天目山の露(現在の甲州市大和町田野で自害)と消えてしまった。

 自害の発端は、武田家臣の離反の中で勝頼は、新府城を焼き払って小山田信茂を頼って落ち延びようとしたが、何と信茂までが裏切った。郡内領への逃走・退避戦の最中に、信茂は突然、勝頼から離反して鉄砲を向けたとされる。追い込まれた勝頼は田野において滝川一益隊と最後の戦いに臨み、嫡男の信雄や北条夫人(小田原北条氏の娘)達とともに自害して果てた。これが小山田氏の自領の保全・維持という黒歴史で、結局は信茂も織田信長に3月24日に処刑されている。

        徳川家康が創建の景徳院にある勝頼たちの墓所

   甲州市「武田勝頼の墓」調査報告書より

   勝頼の首洗いの滝(甲州市)

 手元の『甲陽軍鑑』によれば、勝頼一行は小山田氏の迎えを鶴瀬で7日間待っていた。信茂は郡内領の道を閉鎖して、勝頼たちに木戸から郡内に退避するよう呼びかけた。その後に勝頼たちに虎口(木戸か)から鉄砲を放ったとある。

〇谷村陣屋

 谷村陣屋(やむらじんや)は、山梨県都留市中央にある陣屋の史跡。現在の甲府地方裁判所都留支部には「谷村陣屋跡」の石碑が立っている。

 この陣屋は、都留市の1996年発刊の「通史編」(都留市史編纂委員会)などによると、宝永元年(1704)12月に秋元喬朝が武州川越に転封したが、後任の移封が無く都留郡は御料所となったことで、谷村に代官所が設置された。また御料所は甲府の柳沢吉保の預かり地となり約20年間続いた。

 その後、享保9年(1724)3月に柳沢氏が大和郡山に転封となり、都留郡は甲府勤番支配と代官支配(石和・甲府・伊豆韮山の代官)による天領時代が明治元年までの144年間勘定奉行の支配下で、城下町から天領と体制が長く続いたという。

 参考資料:「谷村城説明版」(都留市教育委員会)、「甲州谷村城絵図」(都留市教育委員会)、『甲陽軍鑑』(人物往来社)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。