茨城県・・・つくば市

小田城㊦・・・戦国乱世で小田城を9度落城も、小田氏は奪還するも最後は敗戦

     城と合戦

 小田城は、中世と呼ばれる鎌倉時代から戦国期に常陸国南部を勢力下にしていた小田氏の居城とされる。昭和10年6月7日に国の史蹟(史跡)指定を受けており、その面積は21万7000平方㍍という。

 豊臣の小田原征伐頃の小田城周辺

  城下町が形成されていた

 城跡は、小田城跡歴史ひろば案内所(小田城跡の現況図参照)から歩いてすぐのところにあります。案内所からりんりんロードを進むと遺構展示室(土塁と堀が外側に広がっている様子・土塁土層断面)があり、ここを越えると堀で囲まれた小田城跡内に登城できる。戦国末期の遺構で、方形の曲輪を中心にほぼ三重の堀と大小の曲輪が取り囲む構造となっていたようだ。史跡指定範囲は南北550㍍、東西は450㍍。

  北西角の土塁遺構断面展示

  北側土塁・縄張図の6番

  城主の建物の有った敷地・建物域・9番

  西池からの続きの堀と橋

 西側土塁と堀

 城内は建物域で西堀を右に見ながら西池にたどり着く。さらに進むと南西虎口、左に直角に南堀、さらに東池、土塁に突き当たったら左に進んで四阿、右手に東堀・東橋。橋を渡って東曲輪。戻って北東の北堀・北橋、北土塁を右手に見ながら遺構展示室まで戻ると一周となる。南西角の虎口から木橋(跡)を渡ると南西馬出跡が堀に囲まれて存在する。

   東池庭園

   東側の四阿(あずまや)

   東堀の東橋を望む

  東曲輪

  発掘調査による東虎口跡の説明版

 小田氏の祖である八田知家は、源頼朝の信任が厚く、最初の常陸守護として頼朝より信任された。建久4年(1193)の「建久の変」で多気義幹を失脚させて地位の安定を得るも、北条氏の進出により守護職も正和4年(1315)までに失った。また小田を本拠としたのも初代の知家か、あるいは小田を名乗り始めた4代目の時知説も聞かれる。

 発掘調査結果による本丸の時代変遷図(鎌倉・戦国・戦国末期)

 守護職を失った小田氏は、元弘3年(1333)の後醍醐天皇の建武の新政に参加して南朝方に与し、5年後の暦応元年には北畠親房を迎えて関東地方の南朝方の一大拠点となった。しかし、北朝軍の攻撃で4年後には降伏して北朝方に従って、8代目の小田孝朝の時に旧領の大半を回復(その後小山若犬丸を匿い討伐された)した。

 戦国期に入ると、14代政治が勢力拡大して江戸・大掾・結城氏などと戦い、15代氏治は、佐竹や上杉を後盾に小田原北条氏と戦い、後に北条氏と結んでいる。弘治2年(1556)には小田原北条氏と結んだ結城氏により、永禄7年(1564)には上杉・佐竹氏に攻められ小田城は落城。小田氏は、その都度土浦城や藤沢城に逃げて奪還を繰り返した。

 永禄12年の「手這坂(てばいざか)の戦い」で佐竹・真鍋連合軍に敗れて小田城への復帰もかなわなかった。天正18年(1590)にも佐竹義重に反旗を翻すも城奪還は果たせなかった。その後は結城氏を頼るも、結城氏が越前に国替えしたことで越前死没(慶長6年・71歳)した。

   小田城のジオラマ

 戦国最弱の武将と言われ、戦うこと45戦で18勝21敗6分けと、9度にわたり小田城を固守することかなわず落城して9度も再起を果たしたが、最後は前述のとおり奪還はかなわなかった。

 なお、小田城は佐竹氏の客将の梶原氏や小場義成の居住となるも、慶長7年に佐竹氏の秋田への転封で廃城となり、一時は幕府領となり陣屋が置かれたこともあったそうです。

 参考史料:「小田城跡」、「小田城跡歴史ひろば」(つくば市教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

埼玉県比企郡の2本のしだれ桜・特別編

  日枝神社の枝垂れ桜

  埼玉県比企郡ときがわ町・・日枝神社のしだれ桜が3月24日現在で満開です。場所は、嵐山渓谷の近くで、小(お)倉城跡手前の道路から一段高い斜面に神社があり、その鳥居の奥に立派なしだれ桜が咲いています。

 東昌寺の枝垂れ桜

 もう1本は比企郡小川町大字角山293に有ります東昌寺の境内にしだれ桜の大木があります。これも満開でネモフィラも咲いていました。

  本堂の軒下にネモフィラ

 

急遽、桜にしましたので、小田城の㊦編は次に掲載予定です。

 

茨城県・・・つくば市

小田城㊤・・・戦国乱世で小田城を固守した小田氏、9度の落城と奪還も最後は敗戦で終わる

  いざ 登城仕る

 小田城は、現在の茨城県つくば市小田2377一帯に鎌倉から戦国期に、現在の茨城(常陸国南部)において勢力を張っていた小田氏の居城として築かれた平城だ。築城者は源頼朝の信任が厚かった八田知家(常陸守護)と言われる。

 しかし、知家であるという確証が有るわけではなく、知家の本拠は八田だったが、藤沢の地(藤沢城址)に極楽寺跡(藤沢城の中城・Ⅲ)が有り寺名を刻した鐘が現存することから、晩年は藤沢(小田城の支城)に居住していたと推測される。

場所的には筑波山塊の一つである宝篋山の南麓に位置しており、周囲には三村山極楽寺遺跡群があり、極楽寺の存在を物語る鎌倉時代の不殺生界碑や石像灯篭、宝篋印塔などと言った石造物が多くみられる。

   小田城のジオラマ

 遺構は堀、土塁、曲輪跡、橋、池などで交通アクセスは、つくばエクスプレスのつくば駅を下車して9・3㎞、つくバスかタクシー利用。 

  八田知家 保元の乱に参戦

 小田治久 南北朝騒乱時代

   天庵公・小田氏治と葉月夫人の人形

 参考史料:「小田城跡」、「小田城跡歴史ひろば」(つくば市教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人 NO122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。