群馬県・・・渋川市
下小屋城・・・伊香保地衆が武田勢の侵攻に対応して築いた守りの山城
とりあえず何とかブログ完成しました。パソコンの寿命かな?お騒がせしました。
赤い屋根の学校の先の山林に下小屋城が
城への登城口
結構大きな石垣
下小屋城(しものこや)城は、元亀3年(1572)に伊香保地衆が武田勢の侵攻に対応して築いた守り専用の平山城と言われている。
『日本城郭大系』には、現在の群馬県渋川市伊香保町湯中子下小屋に築かれた守りの城で、縄張図から見ても、現地に立ってみても城の周りは川に遮られており、守りに徹した最適の場所であり、攻める側の立場に立と川が外堀の役割を果たしており、川を徒渉せねばならないという非常に攻めにくい専守防衛の縄張りとなっている事が素人でもわかる構造だ。
西側の追手から入り真っ直ぐに主郭に向かう
ただし、時間の余裕があるなら兵糧攻めなら、袋の鼠状態の城兵だけに、外からの支援がないと餓死の危険性が高いのではないか。遺構は石垣や堀切、郭跡、土塁(土居)などで、交通アクセスはJR吾妻線小野上駅下車して約7㎞。
沼尾川の切岸・断崖
城と合戦
下小屋城は、伊香保温泉のある伊香保町の北端で、湯中子の沼尾川を越える渡河地点の南岸にある城跡で、元亀3年の甲斐の武田勢の侵攻に対応して、伊香保の地衆(豪族)が築いたもので、二ツ岳の噴出物が連続的に堆積した累層を20㍍以上の深さで形成された沼尾川とその一支流に挟まれている山城で北側を重視した城造りと言われている。
下小屋城の概要図(城郭大系より)
登城口は33号道脇の東側の車数台分のわずかな駐車スパースから入る。とにかく城域は、沼尾川と西沢川が合流する地点の舌状台地の上に築かれ、東西に長く約360㍍、南北は最大で約130㍍足らずで崩壊しやすい断崖がぐるりと城を巡っており巾着袋のような城だ。
下郭と主郭を隔てる低い土塁
下郭
土塁の右側から城内に進入していくと、右手に石垣が見えてくる。この時代に関東にも石垣があった。それも比較的大きな石が使われており、もしかしたら虎口の遺構なのだろうか。
石垣脇を通り抜けるとわずかに傾斜しながら登城路が細長く東側に延びており、虎口の西南端の追手(大手)は幅10m以下の頸部に20㍍を隔てて2筋の堀切を連ねている。
土塁、右側は崖
土塁は城跡の北縁だけに低く盛られており、そこから約80㍍入ったところにある堀切と土橋を北端に見ながら登城する。西側の追手からとにかくまっすぐ進むと、平場の雑草地が城の主郭だ。
北側の帯郭か
さらに進むと東西150m、幅60m、東から北へと、くの字の低い土塁らしきものを巡らした主郭があり、北側に腰曲輪らしきものがわずかに確認され、その東側に主郭より広い下郭がある。そして南から東、そして北側へと下郭の回りは低い土塁が見られる。
ちなみに伊香保地衆とは、戦国時代に真田氏と長尾氏との駆け引きの中で翻弄された地元豪族の木暮氏、島田氏、千明氏、大島氏、永井氏、後閑氏などを指すようです。
参考資料:『日本城郭大系』、『伊香保誌』(伊香保町教育委員会)、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。