新潟県・・・上越市

越後の歴史をかたる古刹、春日山林泉寺の御朱印

 今回訪ねた春日山(山号)林泉寺は、明応6年(1497)に越後国守護代の長尾能景(よしかげ)が亡父である重景(しげかげ)の17回忌にあたり、長尾家の菩提所として創建した曹洞宗の寺院です。

   林泉寺山門

  林泉寺本堂

 場所は、新潟県上越市中門前1−1−1にあります。開山は曇英惠応禅師(どんえいえおうぜんじ)であり、それ以来40年後には、能景の孫の上杉謙信は六世天室光育(てんしつこういく)大和尚に学問を学び、さらに七世の益翁宗謙(やくおうしゅうけん)大和尚について禅の教えを学び、さとりを開いたとされております。

  上杉謙信公の木像、配布資料より

 上杉謙信は、言うまでもなく春日山城において越後守護代として活動した長尾為景と母親の虎御前の子として生まれ、19歳で春日山城主となり、のちに上杉家を相続(天文17年)して越後守護代に。さらに上杉憲政より永禄4年に関東管領職も譲られて、武田信玄との死闘や越山しての関東(14回)への侵攻と、その武勇と義の心は謙信をして他にあらずと言える。

 謙信亡き豊臣政権時代の景勝の時に、上杉家は会津へ移封となりましたので、かわりに越後に入封したのは堀家、高田城主の松平越後守家、榊原家でありまして、各家の菩提所として、代々から「禁制状」を下されて厚く保護されてきたそうです。

 さらに徳川二代将軍の秀忠から、御朱印地の寺領を拝領して「下馬・下乗」の札を立てる特遇をも許されていた由緒ある寺院です。

 記事の参考文献と一部写真は、林泉寺宝物館配布資料より。

 

新潟県・・・十日町市

清津峡渓谷トンネルを訪ねて・・・番外編

 

 今回は、城館跡登城で9月上旬に訪問した越後の観光地「清津峡」を番外編で紹介します。

  柱状の岩は「柱状節理」と呼ばれております

 黒部峡谷、大杉谷とともに日本三大渓谷の一つとして知られております「清津峡(きよつきょう)溪谷トンネル」は、新潟県十日町市小出にあります渓谷で、雄大で荘厳な渓谷美を鑑賞できると観光客に人気となっております。1941年4月に、国の名勝・天然記念物に指定されました。

 第三見晴所「しずく」、歪曲した壁に散りばめられた

   露のしずくのような形の鏡が、外の風景を反射しながら

     内部に取り込んでいる。

 全長が750㍍、往復所要時間は40〜60分で、入坑料金は大人1000円、小、中学生は400円です。

 1500万年前の海底火山の噴火活動によって噴出物や火山灰が堆積して固まった緑色凝灰岩を多く含む地層(七谷層)が形成されています。

 いわゆる「柱状節理」です。この柱状節理が隆起と清津川の侵食により、地上に露出し、さらに谷が深くなってできたのが清津峡だそうです。渓谷トンネルは、1996年に開坑し、2018年に「大地の芸術祭」の作品としてリニューアルされました。

  光の洞窟

 特に人気なのがパノラマステーションの「ライトケーブル(光の洞窟)」です。清津峡の景観を反転して映す「水盤鏡」が幻想的な眺めを作り出すと注目されます。半鏡面のステンレス板が全体を覆い、荒々しい岩の形、鮮やかな緑、青緑色の河水を様々な反射によって内部に取り込んでいます。

 

パソコンをマックから・Windowsに替えました。習熟するまでもう少し登城記は遅れます。あしからず。

 

群馬県・・・渋川市

下小屋城・・・伊香保地衆が武田勢の侵攻に対応して築いた守りの山城

 

とりあえず何とかブログ完成しました。パソコンの寿命かな?お騒がせしました。

 

   赤い屋根の学校の先の山林に下小屋城が

        城への登城口

   結構大きな石垣

  下小屋城(しものこや)城は、元亀3年(1572)に伊香保地衆が武田勢の侵攻に対応して築いた守り専用の平山城と言われている。

 『日本城郭大系』には、現在の群馬県渋川市伊香保町湯中子下小屋に築かれた守りの城で、縄張図から見ても、現地に立ってみても城の周りは川に遮られており、守りに徹した最適の場所であり、攻める側の立場に立と川が外堀の役割を果たしており、川を徒渉せねばならないという非常に攻めにくい専守防衛の縄張りとなっている事が素人でもわかる構造だ。

   西側の追手から入り真っ直ぐに主郭に向かう

 ただし、時間の余裕があるなら兵糧攻めなら、袋の鼠状態の城兵だけに、外からの支援がないと餓死の危険性が高いのではないか。遺構は石垣や堀切、郭跡、土塁(土居)などで、交通アクセスはJR吾妻線小野上駅下車して約7㎞。

  沼尾川の切岸・断崖

             城と合戦

  下小屋城は、伊香保温泉のある伊香保町の北端で、湯中子の沼尾川を越える渡河地点の南岸にある城跡で、元亀3年の甲斐の武田勢の侵攻に対応して、伊香保の地衆(豪族)が築いたもので、二ツ岳の噴出物が連続的に堆積した累層を20㍍以上の深さで形成された沼尾川とその一支流に挟まれている山城で北側を重視した城造りと言われている。

  下小屋城の概要図(城郭大系より)

   登城口は33号道脇の東側の車数台分のわずかな駐車スパースから入る。とにかく城域は、沼尾川と西沢川が合流する地点の舌状台地の上に築かれ、東西に長く約360㍍、南北は最大で約130㍍足らずで崩壊しやすい断崖がぐるりと城を巡っており巾着袋のような城だ。

  下郭と主郭を隔てる低い土塁

  下郭

   土塁の右側から城内に進入していくと、右手に石垣が見えてくる。この時代に関東にも石垣があった。それも比較的大きな石が使われており、もしかしたら虎口の遺構なのだろうか。

   石垣脇を通り抜けるとわずかに傾斜しながら登城路が細長く東側に延びており、虎口の西南端の追手(大手)は幅10m以下の頸部に20㍍を隔てて2筋の堀切を連ねている。

  土塁、右側は崖

   土塁は城跡の北縁だけに低く盛られており、そこから約80㍍入ったところにある堀切と土橋を北端に見ながら登城する。西側の追手からとにかくまっすぐ進むと、平場の雑草地が城の主郭だ。

  北側の帯郭か

   さらに進むと東西150m、幅60m、東から北へと、くの字の低い土塁らしきものを巡らした主郭があり、北側に腰曲輪らしきものがわずかに確認され、その東側に主郭より広い下郭がある。そして南から東、そして北側へと下郭の回りは低い土塁が見られる。

 ちなみに伊香保地衆とは、戦国時代に真田氏と長尾氏との駆け引きの中で翻弄された地元豪族の木暮氏、島田氏、千明氏、大島氏、永井氏、後閑氏などを指すようです。

 参考資料:『日本城郭大系』、『伊香保誌』(伊香保町教育委員会)、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦辞典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の写真』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。