ユーモア時代小説 月影兵馬事件帖 <2>噂(うわさ) | 水本爽涼 歳時記

ユーモア時代小説 月影兵馬事件帖 <2>噂(うわさ)

   その噂(うわさ)は兵馬が勤める町奉行所から出始めた。
「月影! 明日は非番らしいのう」
 珍しく上機嫌の内与力、狸穴(まみあな)が声をかけた。兵馬としては、何か不吉な感がしないでもない。というのも、毎度のことながら、狸穴には雷(かみなり)を落とされているからである。
「はっ!  さようで。では、これにて…」
 ここは三十六計、逃げるが勝ち…と思った兵馬は、すぐさま立とうとした。
「いや、待てっ! そう急(せ)かずとも、よいではないか」
「はっ!」
「実は、少しそなたに訊(たず)ねたき儀があっての…」
「どのようなことでございましょう?」
「そなた、お奉行が近々、たいそうなご出世をなされるという噂を耳にしてはおらぬかっ?」
「いや、そのようなことは…。初耳でございまする」
 兵馬は本当に知らなかったのである。
「そうか…。誰ぞがそう申しておったと聞き及ぶが…」
「狸穴さまは、そのお話を誰から?」
「んっ? 誰であったかの…」
 都合が悪くなった態で、狸穴の方から先に部屋を出ていった。兵馬は自分に関わりなかったことに、ひとまずは安堵(あんど)した。それにしても、その話を誰が…と考えながら、いつものように芸者のお駒のいる置き屋へと兵馬の足は向かった。内与力の狸穴がお奉行の後釜(あとがま)を…と考えを巡らせば、自ずと笑えるというものである。
「入るぞっ!」
「兵馬さまっ!」
 兵馬が置き屋の戸を開けた途端、飛び出してきたお駒は、歓びを露(あら)わにした。女主(おんなあるじ)のお芳は、お駒の毎度のはしゃぎように、困った子ねぇ~…と思いながらの隠し笑顔でお駒を見た。
「あらっ! 兵馬さま。ずいぶん、お見限りですこと…」
 お芳とすれば、嫌味の一つも出ようというものである。
「ははは…いや、勤めが忙(いそが)しくてなっ!」
 ここ最近、これといった事件もなく、忙しくないことは二人に知れ渡っている。そこはそれ、上手(うま)く躱(かわ)す方便で逃れる兵馬だったが、二人の追及は幸いなく、その後は支障なくいつもの時を過ごした。
「そういやこの前、狸穴さまからお声がかかったよね」
 しばらくして、兵馬の酌をするお駒に銚子を運んできたお芳が声を挟(はさ)んだ。
「若竹楼でしょ!? そうなんですよ、兵馬さま…」
 若竹楼とは、この辺りでは有名な料亭だった。
「ほう! 狸穴さまがな…」
「お供を何人かお連れでしたけど…」
「奉行所の者か? まあ、お前も飲めっ!」
 兵馬が猪口をお駒へ不愛想に差し出した。
「さあ、そこまでは…。あたしゃ、踊りとお酌で、すぐ帰りましたから…」
「そうか…。誰かのう?」
「あっ、そうだっ! 御番所風のお侍ではなかったような…」
「奉行所の人間ではなかったと申すか?」
「まっ! 感じ、飽くまでも感じですけどねぇ~。小難しい話をされてましたよ…。あたしにゃ、チンプンカンプン!」
「ははは…そらまあ、そうだろうがっ! おっ! いけねえ! 喜助が魚を届けてくれるのだった…」
 お駒が猪口の酒を飲み干したとき、兵馬の姿はすでに置き屋にはなかった。
「ったくっ! 兵馬さまときたら…」
 毎度のことだから、お駒も諄(くど)くは愚痴らない。この日は木戸に裏返った片草履は落ちていなかった。
「あらっ? こんなところに印籠が…」
 お芳が兵馬が飲んでいた座布団の上の印籠に気づいた。
「ほほほ…やっぱり兵馬さまだっ!」
「ほんとだっ! うっかりは治らないんだねぇ~。根付がついてるのに落とすかい?」
「兵馬さまだから落とされたんでしょ!」
 二人は賑(にぎ)やかに呵(わら)った。その頃、兵馬は屋敷へ戻ったところだった。通用門で喜助が首を長くして待っていた。
「旦那ぁ~! 生(い)きのいいのを持ってきやしたのに、生(なま)っちまいまさぁ~!」
「すまんのう、喜助! これでも急いで帰って参ったのだが…」
「ほんとですかい? なんか酒と姐さんのいい匂いがしますぜ…」
「うっ! まあいいではないかっ! 何を持ってきてくれた。勝手口へ回れ…」
「それよか、旦那。ちと、小耳に挟んだんですがね…」
「何を挟んだんだ? ははは…この懐紙(かいし)かっ!?」
 兵馬は懐に入れた懐紙をチラつかせた。
「ははは…ご冗談をっ! 相変わらず旦那は面白(おもしれ)ぇ~やっ!」
 そのとき、兵馬は印籠が腰にないことに気づいた。
「しまった!!」
「どうなすったんでっ?」
「いやなに…。印籠をなっ、お駒のところに…」
「ははは…加えて、そそっかしいやっ!」
「馬鹿野郎! それより、話を聞こう! 勝手口のお粂(くめ)に魚を渡し、そのまま上がれっ!」
「へいっ!」
 喜助は返事をし、そそくさと勝手口へと回った。お粂とは、屋敷に長年、住まいする女中頭(じょちゅうがしら)である。
 喜助の詳しい話は、奉行が老中に出世する・・というものだった。
「んっな、馬鹿なっ!!」
 魘(うな)され、叫んだところで、兵馬は目覚めた。
「どうされたんです、兵馬さま!?」
 瞼(まぶた)を開けると、兵馬はお芳の置き屋にいた。つい飲み過ぎ、夢を見ていたのである。
「夢のヤツ、身共(みども)をからかいおって! ははは…とんだ事件だったわっ!」
 お奉行が破格の出世をするという噂の犯人は、兵馬の夢だったのである。ただ、印籠だけは正夢で、兵馬が寝ていた座布団の上に鎮座していた。