怪奇ユーモア百選 10]峠(とうげ) <再掲> | 水本爽涼 歳時記

怪奇ユーモア百選 10]峠(とうげ) <再掲>

 頂上からの帰り山道を辿(たど)っていた渋川は、前方に現れた分岐路で、ふと足を止めた。道標(みちしるべ)がなかったのである。普通、こうした場所には道標・・としたものだ…と、渋川は不満っぽく思った。道路標識がない道を車が走れば必ず事故が起こる・・という具合に考えた訳だ。
 渋川が山に登る場合、装備として山岳マップは必ず携行していた。そんなことで、渋川は当然、地図を広げ、これも装備したコンパス[方位磁石]と合わせてみた。地図には分岐路も記(しる)されていたから、合わせやすかった。秋の陽(ひ)は釣瓶(つるべ)落とし・・とはよく言うが、まだ、日暮れには少し早い時間だった。
「こちらの道で間違いなさそうだな…」
 確認して少し安堵(あんど)した渋川は、そう呟(つぶや)くと、ゆっくりと分岐路の片方を下り始めた。辺(あた)りは鬱蒼(うっそう)と茂る木立(こだち)である。その中の細い山道を通り抜けるように、渋川は下りていった。
 かれこれ半時間も下っただろうか。渋川は荒い息を吐(は)きながら、ようやく元来た同じ峠へと戻(もど)ることが出来た。フゥ~っと溜(た)め息を一つ吐いて峠の道へ抜け出たとき、渋川は妙なことに気づいた。峠の茶店にしては貧相な佇(たたず)まいの店が一軒、小さく見えたのである。登ったときにはなかったはずだった。渋川は、馬鹿なっ! と思った。登ったときになかったものが、戻ったときにある訳がないのだ。事前に調べた情報によれば、この子竹山(こたけやま)には茶店などなかったはずだった。それが、現に近づく前方にあるではないか。渋川の脚(あし)は次第に近づいていき、ついにその店の前へ立った。
「あのう…誰か!」
 渋川は、やや大きめの声で叫(さけ)ぶように言った。
「はい…どなたかな?」
 店の奥から出てきたのは、みすぼらしい老婆だった。
「少し小腹が空(す)きましたもので、何か出来ませんか?」
「はあ? …ああ、峠の竹の子の煮ものならお出し出来ますがな…」
「じゃあ、それとご飯で…」
 財布には万一を考え、それなりの額を入れていたから、値段まで渋川は訊(き)かなかった。
「へえ…しばらくかかりますで、お待ちくだせぇ~まし…」
 老婆はゆっくりお辞儀すると、奥へと消えた。肋屋(あばらや)だからか、どうも陰気な老婆に思えた。渋川が腕を見ると、すでに四時は回っていた。
 渋川は忍耐強く待ち続けた。時は流れ、小一時間が経ったが、いっこうに老婆が出てくる様子はなかった。渋川は痺(しび)れを切らしていた。陽はすでに西山へと傾き、暗闇(くらやみ)が迫っていた。
「婆さん、出来ないなら、もういいよっ! 俺、急ぐから!」
 渋川は、ふたたび叫んだ。
「お客さん、出汁(だし)は出来たんでね。こちらへどうぞ…」
 奥から声が響いて聞こえた。
「こちらって…?」
 訝(いぶか)しげに渋川は訊き返していた。
「ひひひ…土鍋(どなべ)の出汁風呂に浸(つ)かって行かれましな」
 老婆の声が少し凄味(すごみ)を増した。
「出汁風呂って?」
「そうさ! あんたを煮るんだよ!!」
 そのとき突如(とつじょ)として、ギロリ! と睨(にら)む目鼻だちの怖(おそ)ろしげな竹の子妖怪が渋川の前へ浮かび出た。
『ひひひひひ…』
 竹の子妖怪は怖ろしげな顔で渋川を見下ろすと、舌舐(したな)めずりした。その顔は、どこか妻の直美が怒ったときの顔に似ていた。
「ギャア~~!!」
 渋川は気を失った。
 気がつくと、渋川は家のキッチン椅子で寝ていた。晩酌の酒を飲み、どうも疲れが出たようで、ついウトウトと寝込んでしまった節(ふし)があった。ツマミは妻の直美が調理した竹の子の煮つけだった。ああ、それで、かっ! と渋川は、夢の原因が分かった。
「そろそろ、夕飯にするわね、あなた」
 直美が調理場から声をかけた。
「ああ…。今、変な夢を見たよ」
「こんなの?」
 直美が振り向くと、その姿はギロリ! と睨む目鼻だちの竹の子妖怪だった。
「ギャア~~!!」
 渋川はふたたび気絶した。気づけば渋川はベッドの上で眠っていた。よ~~く考えれば、ベッドは夏用に誂(あつら)えた竹製のベッドだった。不思議なことに、ベッドの下には渋川が夢で見た峠の竹の子が一本あった。渋川はそのことに気づかず、安心したかのようにふたたび瞼(まぶた)を閉ざした。渋川が次に見た夢、それは家の床下(ゆかした)を突き破って生える竹の子の夢だった。

   
                     完