娘からのLINEは相変わらずそっけない用件だけ。

しかも敬語なのさびしいなぁ


郵便受けを見ていなくて、娘からの頼まれごとを見逃してた。


その事についての問い合わせの連絡に、

見ていなくてごめんね。アイシングクッキーのレッスン中だから帰って確認するねと返信。


帰ってポストを見ると書類と切手が入ってた。

携帯のキャリアを変えるのに私の身分証明と委任状が必要らしい。


娘から折り返しのLINEで、

今から送られても間に合わないから明日取りに行くとのこと。


娘が逗子に来るなんて、よっぽど急ぎで必要なんだね。


しかも私は明日IZAの料理教室なんだよね。

せっかく逗子にきても会えないや。残念。


『今から家まで届けようか?』

もう夕方だし、そこまでしなくても良いかな、と思ったけどLINEした。


娘に甘えてほしかったんだな。


『家にいないけどポストなら助かる』って返信がきて、今電車の中。


困った時には助けるよ。味方だよ。頼ってね。

伝わらないけど思い続けよう。


子どもたちが小学生だった、2011年の3/11。


私はリビングでのんきにオールレーズンを食べながらテレビを見ていました。


パチンとテレビが消えて、

「あ、停電」


揺れ出したのはその後でした。


長いなぁと思いながら揺れが収まるのを待って、

(学校に子どもたちを迎えに行かなきゃ。)

(お母さん大丈夫かな。)


ケータイで実家にかけたけど繋がりません。


とりあえず小学校に向かいました。

その前に、自転車で主人の実家に行き、

義両親の無事を確認しました。



学校に着いてからもう一度母に電話をかけたら、

今度はつながって、

神奈川以外の所が大変なことになっていると知りました。




校庭に防災頭巾を持って保護者が迎えに来るのを待っている子どもたち。

先生はヘルメット姿。


娘と息子、それにお母さんが迎えに来られない娘のお友達2人を一緒に連れて帰りました。


家に着いても停電したまま。


寒いのですぐにストーブをつけました。


ガスは使えるのでとりあえずお湯を沸かして、

湯たんぽにお湯を入れて、子どもたちに渡しました。


何をしたら良いのかよく分からなくて、

とりあえず明るいうちにご飯だけでも炊いておこうと、鍋でご飯を炊いておむすびにしました。


暗くなってしばらくしてからお友達はお母さんが迎えに来てくれて無事に帰って行きました。


ランタンとロウソクを点けて灯りをとり、

子どもたちと3人で身を寄せていました。


私はとにかく子どもたちが不安な気持ちにならないように必死でした。


「これくらいのこと、何でもないよ!」

「いつもと違っても楽しく過ごせるよ!」


と無駄に明るく振る舞っていました。


部屋は暗くて静か過ぎるので、

とにかく色々喋ったし、

ウクレレを弾いて一緒に歌って、


怖くないよ!を演出するのに必死。


でも本当は私が不安で不安でたまらなかった。

私一人でこの子たちを守れるのかな。


余震がくる度に怖くて、

それを悟られないように笑顔で「大丈夫」を繰り返します。


その日、主人は帰って来ないどころか、

電話もありませんでした。


電車は動いていないし、

帰って来られないのは仕方ないけど、


横浜の母も、

東京の姉も、

新潟の姉も、

電話で連絡を取り合えたのに、

電話一本かけてこない主人にガッカリしました。


私から会社に電話はしませんでした。

(主人は携帯電話を持っていなかったので、

混乱しているであろう会社の電話に個人の安否確認の電話をかけるのをためらいました)


今思えば、私の気持ちもその程度だったんだな。

主人からかけてくるのが当たり前だと思ってた。



次の日、帰って来た主人に

「連絡もしないで、子どものこと心配じゃないの?」

と言ったら、

「俺のこと心配じゃないの?」と言われて


あー、なんかどのタイミングでもこの人とは噛み合わないなーと、あらためてガッカリしたのを覚えています。


価値観が違うから面白い、と感じでいたけど、人生を共にする時、かけ離れた価値観はしんどい。


もともと夫婦の関係はうまくいっていなかったけど、完全に崩壊しているんだと再確認。


自分が思う理想の家族になれないことに悩んでいたけど、そもそも自分の勝手な期待だったんだとこの頃から気づき始めました。






父の日だったからかな。

亡くなった父のことを考えていた。


私は三姉妹の末っ子で、姉たちと少し歳が離れていることもあって、

多分、甘やかされていたんだと思う。


ただ、私の感じ方はそれとは逆で

母が怖かったし、甘やかされているどころか

いつもビクビクして、すごく厳しく育てられた感覚なんだけど。


姉たちから『祐子に甘い』とか『祐子ばっかりひいきしてる』とか『祐子はずるい』とか言われていたから多分、姉たちはもっと厳しく躾けられていたんだと思う。


父は私のことを『ゆーさん』と呼んで可愛がってくれてた。

鼻が低い私をからかうように、『ゆーさんはかわいいなぁ』といいながら私の鼻をつまんで左右にキュキュってゆすられたのを覚えてる。


私は子どもの頃ものすごく粘膜が弱くて、しょっちゅう鼻血を出す子だったんだけど、

父のこのいたずらのせいでも何度も鼻血を出してたな笑


その度に『上を向け』とか『首の後ろを叩け』とか、今では考えられない民間療法で対処していたなぁ( ´д`ll)



父のことを思い出す時、だいたいちょっと笑えるエピソードを振り返るんだけど、


実際どうだったっけ?って考えてたの。

ホントにそんなにほのぼのした親子だったっけ?



中学生に入る頃には反抗期が始まっていたし、

平日は帰りが遅く、土日は趣味人だった父。


父は私の態度が悪いことも、母に『なんだ祐子のあの態度は!』って言うだけで日頃のコミュニケーションって薄かったんじゃないかな。


父が直接私に何か言う時はすでに怒っていて、

話し合いとかではなく正座させられてお説教。


私は(早く終わんないかなー)と思い、『ごめんなさい』と言いながら心の中で舌を出しているような子でした。


口ごたえもしたし、父は私に手をあげることもありました。


怒られて心から反省した記憶はなく、起きている状況と自分の心を切り離しているような時間だったなー。

(多重人格みたいな気持ちで正座させられている子をボーッと見てる)


私が初めてパーマをかけた日も、バイトしたいって言った日も、私が自分の心に従うと、とりあえず怒られてた。(父も母も)


一人暮らししたいって言った時も怒ってたなー。


私が自分の心に従うことを恐れるのは、そういう土台があるからかな。


今お父さんが生きていたら、どんな風に関わっているかなぁ。


自由に生きる私を見て心配するかな。

幸せそうだなと安心するかな。