映画が好きで、最近は「プラダを着た悪魔2」「Michael」「キングダム」を見てきました。

まだ他にも観たい映画がいろいろ。

子どもの頃から好きだったけど、昔の私は「映画が好き」と、あまり堂々と言えなかった。

映画館にしょっちゅう行っていたわけじゃないし、レンタルビデオを借りたり、テレビで放送される映画を観たり。

中学生のとき「映画が好き」と言ったらスター・ウォーズの話をされて

「観てない」

と答えたら、「映画好きなのに?」と言われた。

今なら、「うん、観てないんだよね」で終わる話なのに、そのときの私は違った。

映画が好きなら、スター・ウォーズを観ているものなのか。

観ていない私は、「映画好き」と言ってはいけないのかな。

そんなふうに思っちゃった。

SFをあまり観ない。
ホラーも観ない。
観ていない有名な映画もいっぱいある。

映画好きなら、これくらい知ってるよね。
このくらい観てるよね。

そんな基準ができてしまった。

今思えば、私の中に「好き警察」がいたんだと思う。

「それ、本当に好きって言っていいの?」

「その程度の知識で?」

「もっと詳しくないと、好きとは言えないんじゃない?」

好きなものを楽しむ前に、好きと言っていいかどうかを取り締まる私がいるの。

映画だけじゃない。

音楽もそうだった。

ビートルズが好きという人がいて、「私も!」と言ったことがある。

でも、実際には姉の部屋から聞こえてくるラジカセの音を聴いていたくらい。

それを話したら、なんだか相手がちょっとガッカリしたように感じた。

「そうか。好きって、こういうことじゃないんだ」

好きなら、もっと知っていなきゃいけない。

好きなら、詳しくなきゃいけない。

好きと言うからには、それなりのものを持っていなきゃいけない。

そんなふうに、「好き」に合格基準を作っていた。

誰かが好きだと言っているものを見て、「素敵〜」とすぐに思う自分を軽く感じたし、

サッカーも野球も、オリンピックも代表戦くらいしか見ないにわかファン

自分の「好き」は、上辺だけなんじゃないか。

中身が空っぽなんじゃないか。

そんなふうに、自分の好きに自分でダメ出ししていた。

占星術を学び始めたときも、同じ。

私よりずっと前から学んでいる人がいる。

私より詳しい人がたくさんいる。

そんな中で、「私、占星術が好き」と言うのが、なんとなく怖かった。

今思うと、私は「好き」と言うことにすら、自信がなかったんだと思う。

『誰がなんと言おうと私はこう思う。』

そういうものが、私の中にはなかった。

人の評価が気になる。

自分で判断するのは怖い。

誰かの意見に乗っかっていれば、もし違っていても、自分だけの責任にはならない。

だから私は、いろんなことを誰かの基準で測っていたんだと思う。

「そのレベルなら、好きって言っていいですよ」

そんな、いもしない誰かに合格をもらいたかったのかもしれない。

でも、今は少し違う。

別に、ものすごく詳しくなったわけじゃない。

映画をたくさん観るようになったから、映画好きと言えるようになったわけでもない。

今だって、知らないことはいっぱいある。

それでも、

「これ、好きだな」

と思ったら、

「好きでいいじゃん」

と思えるようになった。

人から見たら全然大したことじゃないし、

ミーハーだしにわかです。

でも、私が好きだと思ったことまで、誰かに採点してもらわなくてもいいって思えるようになってから、気づいたことがある。

私、好きなものがけっこうある。

というか、思っていたよりずっとたくさんある。

昔は好きなものがあっても

「これは好きって言っていいのかな」

と、自分でジャッジして、公言しないようにしてただけ。

そう考えると、私自身はそんなに変わっていない。

今だって人の目は気になるし、自信がなくなることもある。

「誰がなんと言おうと私は私!」なんて、そんなに強くはない。

ただ、自分が感じたことを、前ほどすぐに否定しなくなった。

もしかしたら、それが「自分を許す」ということなのかな、と最近ちょっと思う。

そう言えば、私のブログのタイトルは、

「好きな自分で生きていく」だった。

なんでこのタイトルにしたんだっけ。

改めて考えてみたら、

好きなものをたくさん集めたかったというより、

好きなものを、ちゃんと「好き」と言っていい自分でいたかったのかもしれない。

今は、このタイトルがすごく気に入ってます。