『因果関係の証明を待てるか否か』 正式科目ではなく たとえ一年に一回だけの 授業だとしても | ひろのブログ

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私は待てない
仮に私がその被害に遭うなら、
私は死んでいるか、一生ものの後遺症になっているはずだから。

因果関係が認められようが認められまいが 
私の方には何の変わりもない
私は死んでいるのか 一生不自由な体になっているかどちらかだからだ

仮に因果関係が認められて 私に金が入ってきたところで 私の状況は変わらない 被害者であることは変わらない

しかし因果関係が認められれば それが危ないということが みんなにも知れ渡るそれをやめとこうと思う人が 現れるだろう

そういう意味ではきちんと因果関係が 認められることが 大きな意味を持つ

しかしよほどのことが 起きない限りなかなかそこまでは行き着かない
サリドマイド、エイズ、
危険な副作用が明らかに認められたものもあったり 認められていたのに明らかにそれを中止するのが 大幅に遅れたものがあったり

有効性よりも 副作用の方が 強かったり、
安全で有効な薬だったら ずっと残っていてもいいはずだけど なぜか新しい薬は次々と 出続ける

民族による体質の差がどこまであるのかわからないけど 世界中のみんなが 使えるような薬が どれだけあるのだろうか

もし学校でそんな授業があったとしたら 子供の私はそれをどう感じたのだろうか

学校の授業の中に もっと様々なジャンルがあったとしたら たとえそれが正式科目でなくて一年に一回しかないようだ そんな科目だったとしても、
ある子供にとっては それが人生を変えてしまうような大きな出会いになるかもしれない たったひとつの何かが自分に合う何かが 夢中になれる何かが見つかったら その子は それだけで生きていけてしまう と言っても過言ではないと思う

夢中になれる何かがあるだけで 人は 笑顔で幸せに なれてしまうのだから