【酵素ドリンクは何年前くらいからあるのか?】 | 嵐アカデミー健康講座 体のチカラ育成塾 メタボリズム栄養学 メタボのことなら嵐に聴け!

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【酵素ドリンクは何年前くらいからあるのか?】

 

おそらく、70年ほど前からではないかと思われます。

以前、健康食品の会社に勤めていた時に、酵素を販売している代理店の方や酵素メーカーの方に

酵素食品の歴史は時いたのですが、どうも農業に利用していたのが始まりだということを聞いたことがありました。

 

そこで、こんな記事を見つけました。

 

柴田欣志氏と言われる方です。

 

愛知県岡崎市の醸造業従事者の子供に生まれた柴田欣志氏は、肺結核を患い、長野県で療養生活を送る。

 

療養生活の間に自然を見ていた欣志氏は、腐植によって大地が培われ草木が育つという生態に、醸造業における発酵のイメージを重ね合わせ、食品加工における酵素の作用を農業に応用することを思いついた。

 

柴田欣志氏は土の中の最も有用な酵素は植物の根で吸いだされ、果実や野菜の中に含まれると考えた。

 

そこで果実や野菜等の中に存在する酵素を肥料に活用するために、まず、砂糖を用いて浸透圧差を利用して抽出し、抽出した酵素を「元種」と称した。

 

そして、この「元種」をにんじん、バナナ、イチジクなどを入れた杉の樽に入れて培養したものを「中種」と称した。

 

この「中種」を米ぬかと珪藻土と下肥に加えてつくった肥料を「酵素肥料」と呼んで、畑に施した。

 

こうして土の中の有用な酵素を増やすことで、酵素の働きによって土を豊かにし、土地の生産能力を上げようと考えたのであった。

 

以上が柴田欣志氏の酵素農法である。

 

おりしも、柴田氏が酵素肥料作りに取り組んだ、戦中から戦後にかけての1940年代は、生活物資が枯渇し、農作物の栽培に必要な購入肥料が不足する中で、農家が自給肥料に頼らざるを得ない時代であった。

 

こうした時代背景から柴田欣志氏の酵素農法は脚光を浴び、酵素農法を鳴り物入りで喧伝する団体まで現れ、戦中から終戦直後にかけ、酵素農法は全国的な一大ブームとなったのであった。

 

こうしたブームを受け、柴田欣志氏が鎌倉で開く酵素農法の講習会には全国から多くの人々が集まるほどであった。参加者の中には、農家だけでなく、田中直吉近畿大学教授ら学者の姿も見られ、19477月には、東慶寺が講習会場になっていたということから、当時の盛況ぶりがしのばれよう。

 

こうして講習会を行うにいたった柴田欣志氏であったが、もともとの出発点が、腐植によって大地が培われ草木が育つという生態に、醸造業における発酵のイメージを重ね合わせるという抽象的なものであり、科学的知見に基づくものであったわけではなく、醸造業従事者の思いつきに留まるものであったから、柴田欣志氏の酵素農法には、科学性や具体性はまったく見られなかった。

 

そればかりか、柴田欣志氏は、肥料の酵素を「酵素さま」と呼んで信仰対象とし、「酵素は皇祖に通じる」などという奇妙奇天烈な教義を展開して、「コーソさま」と唱え、酵素を崇めるようになっていった。

 

 

また、いいかげんな作り話をする人でもあったようで、「昭和天皇の御前法要を執り行った」などと言っていたそうである。

 

酵素の講習会でも柴田欣志氏の話は、雲をつかむような内容で、酵素農法の方法などそっちのけで、「コーソさま」と唱え、「酵素は皇祖に通じる」などの教義を神がかり的な口調で説いたため、ほとんどの人が理解できず、多くの人を失望させた。

 

こうした中で、1947年4月~6月には、酵素ブームを受けて、農林省が馬鈴薯を実験台にして酵素による栽培と慣行栽培の比較試験を行ったが、酵素農法の有意性は否定された。この試験結果により、酵素農法の評価は地に落ちた。

 

柴田欣志氏の言動も相俟って、多くの人々が酵素農法に見切りをつけた。

 

というものです。

 

おそらく、この時代から発酵食品のことを酵素、酵素というようになったのかもしれませんね?