支配者はサイコロをふらない -4ページ目

支配者はサイコロをふらない

別のサイトにて書いている自分のブログを移植したものです

時間があったので更新



愛国主義、共産主義、社会主義、ファシズム、資本主義、民主主義…




どんな主義でもいい


それらは、すべて過去の負の遺産でしかない


すべては虚構の存在で、すべてが嘘で塗り固められている




かつて、それぞれの主義が必要な時代も存在したのは事実だが

現在では、まったく意味を持たない



これらの主義から産み出されたものは1つとして

正しいものは存在しなかった



私達は崩壊に向かう世界で生きている


これはいつ始まったのか?と聞く人もいるだろう


それならば理解する機会はある



しかし、多くの反応は


「マルクス主義か!?」


「スターリンは、このために800万人を殺した」


「共産主義!ファシスト!」


「日本が嫌いなら出て行け!!」


といったものばかり


個人的には、あまりの単純さに驚いてしまう


彼らはこの偶像を離さない

よほど大事なもののようだ



なぜ、主義がどれかという考えしかないのか理解できない


この政治的主義には欠陥がないか?

とは、決して考えない


私の答えは簡単だ

どんな主義も支持しない


もう主義の時代は終わった





かつて主義がなかったころ

人々は生活基盤を持っていた



そして、あらゆる生活基盤が存在し

その多様性は、他の生物には類を見ない



それこそが、人間の真の強さだ




今の社会がいったいどこへ向かっているのか

一度、じっくりと考えてほしい



すべてのシステムはすでに機能しなくなっている

問題をよく分析し、理解しよう



混乱しているのは人々ではない

システムが混乱をしている



もともと欠陥のシステムだった事に気付かなければ

この混乱はいずれ致命的になるだろう









これは宗教の話しです

読む際には、多少の注意が必要です
何らかの宗教団体に属し、完全に信じている方は
読むのは避けることをお勧めします

始めに書いておきますが、私は完全な無宗教者です


なにか矛盾を感じていたり、疑問がある方、悩んでいる方の力になれば嬉しく思います







それでは、始めます

現在、存在しているいかなる宗教においても
必ず、仏教で言う「御利益」という概念が存在します

人間が何かを行うことで、何かが返ってくるという概念です

これは、具体的にどういうことかと言えば
「〇〇にお参りしたので、良い事がある」
「信じているので、救われる」
などという考え方です


この論理を逆に言えば
「〇〇をしたので、神は人間に返さなければいけない」
とも言えます

これは神と人間が対等、もしくは人間が上だということになります


この論理は西洋宗教においてもまったく同じです

そして答えもまったく同じです
最後には、神を下に見るか、論理破錠しかありません
(下に見ている時点で破錠とも言えますが…)



キリスト教、イスラム教を生み出した、紀元前のユダヤ教の基本構造を例に出してみます


もちろんユダヤ教も「神との契約」の概念で
強引に言えば、神と契約して、人間が契約どおり行動すれば
神は、御利益をくれるという、日本の「御利益」の概念と同じでまったく変わりません

そして、残念ながら、この御利益主義は
歴史や経過を見れば、それぞれが矛盾しているといえます

ユダヤ教は大きく分けて3つに分けることが出来ます

具体的には
1、神殿主義(サドカイ派)
2、律法主義(ファリサイ派)
3、修行主義(エッセネ派)
になります

1の神殿主義の矛盾は
所得の10%も税を払い立派な神殿を維持してきたのに
イスラエル王国はアッシリアに、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ奴隷となったという神殿主義の矛盾

2の律法主義の矛盾は
律法を神との契約通りに守っているかを判断するのは
結局人間の側、(それも通常自分自身)であり
実際に神との契約が守られて、罪人ではなくなっているか否かは、死ぬまで分らない
つまり何の救いにもならない、もしくは、人間が自分で神の満足レベルを決めるしかないという矛盾です

3の修行主義の矛盾は
いくら荒野で荒行をしても、結局、神は、人間とは関係なく判断するのであり
律法主義と同様、荒行が御利益の保証には全くならない、という矛盾です


残念ながら、これらの矛盾は、現在のどの宗教にも存在しますが
これこそ、ユダヤ教の改革者であったイエスに指摘されたものです


ここで、イエスの主張は
神と人間が契約するなどとはおこがましいという主張だったといえます

全ては神の側が決めるのであり、人間の側が何をしてもおこがましいということです


また、「神は既に我々と共にある」
もしくは「神は無条件に人間を愛している」という主張です

だからこそ、逆に、例えユダヤ教律法主義で規定された罪人であっても
神は許す可能性があるという論理となります

全ては神の側が自由に決めるのであり
人間と神が契約という立場で人間が神の行動を制約するような
対等もしくは、人間優位な関係なのではないという主張です

勿論、この「神は既に我々と共にある」という主張を受け入れれば、この論理に矛盾はありません

紀元前のユダヤ教を含む多くの「御利益主義」宗教が抱える本質的な問題を解決する画期的な主張でした

この主張により、イエスは全てのカルト的原始宗教の矛盾を断ち切ったといえます

つまりイエスの言うカルトとは
見返りや、御利益を「約束」する宗教すべてに対してです

個人的に、この論理はとても素晴らしいと思います


かなりイエスを持ち上げましたが
公平性を保つために補足も書いておきます

イエスはまったくの想像上の人物でしかない
というのが、学問に基づいた今のところの答えです

イエスが実在したとされる地中海辺りの、どの歴史家にも記述にもまったく登場せず
そのような人間がいたことさえ記録にありません

もちろん失われた可能性もありますが
今のところ証拠がないので、そのような人物を
歴史の教科書に載せることにさえ疑問があります


これでは、教科書を見たほとんどの人が
まるで実際に生きていた人間だと誤解してしまう可能性があります

また救世主と呼ばれる存在は、過去に無数に存在しており
どれもイエスと同じ特徴があり、設定も同じです

いちばん可能性の高い答えは
さまざまな神話や伝記からコピーされた想像上の、いちばん最新の救世主
というのが、学問的な判断です


少し、話しはそれました

実在しないとなると、イエス以外の誰が考えた論理なのかは知りませんが
ここではイエスとしておきます

恐らくは政治的な理由により作られた論理だとは思いますが
矛盾がない事には変わりません

この矛盾の解決が
キリストの名前が2000年も残る本当の理由だと考えます

他には、仏教では2500年前に釈迦が
それよりも遥かに素晴らしい論理で矛盾を克服しています

誤解しないように書きますが
現在の日本の仏教は矛盾しかありません

釈迦が退けた「約束する」というカルトになっていると言えます
もちろんこれはキリスト教にも言えますが


少なくとも現存のカルトと呼ばれる宗教も、一般的にはそうでない宗教も
上記した、いづれかの矛盾を抱えています


どの教祖も矛盾がないとは言うと思いますが
仏教(本来の釈迦仏教)、キリスト教(イエスの論理に基づいた)が過去に矛盾を解決してきたという差が
大きな差だといえます

正しく釈迦とイエスを理解していない人間が
残念ながら、現在では、また矛盾を含んだカルトにしているということがほとんどではありますが…


これを読んだ方が、どんな宗教に入るかというのは自由です

なんの問題もありません
もちろん、どこにも入らないのも自由です


ですが、入るからには個人の経験談や体験だけで決めず
創始者の考えや、矛盾など、あらゆることを吟味し決定してください


それと1つ付け加えておきますが
これを読んで傷ついたり、ショックを受けてもどうしようもありません

意地悪で、困らせたいから言ってるわけではありません

ただ、学問に基づいた事実を言っているに過ぎません


もちろん絶対的な答えではありません

ですが過去に提出された証拠がいずれも偽物であったので
新たな証拠が発見されるまではこれが出来る限り公平な判断だと考えます



法治国家について少し触れましたが

その辺の話しを深く書いていこうと思います


現在の日本は法治国家とは言えない


人治国家という言葉が当てはまる


ある特定の人間の都合によって

悪にも正義にも解釈を変えるような

一貫性のまったくない国家です


このような国では公平な判断などが行われることは決してありえない

メディアを利用できるものが、正義となる


今回の小澤氏関連の裁判もどう考えても異常だとしかいえない


この流れにおいても、法治国家でもないという結論しかない

そして、民主主義でもない


小澤氏も含め、回りの人間が有罪か無罪かは言及しないが

これは、裁判の制度と仕組みが異常だという意味



なぜ、そういったことを全てのメディアが報道しないかは単純に資本の問題でしかない


必ず、マスコミにはスポンサーが存在し

資本と編集権を同じ人間や企業が握っている状態に問題がある


こういった状態では、どんな報道も意味を持たないし

何も解決することはない


しかし、すべてのメディアをひとくくりにして

すべてを否定するに事は、また違った問題を生み出すことに繋がる


少し問題をはっきりさせていこうと思う




まずは、テレビについて


この世界に関わる多くの人は、テレビの力によって

「社会の病理を糺す」など、何かを変える力があると思い込んでいるかもしれないが

そんなものは持っていない


過去にあって、今はない。という意味でもない

今まで、一度でもそんな力を持ったことはない


それを持っているかのように振舞うことそのものが

偏向と言っていい


理由は先に書いた資本と編集権の一致



本来、テレビはリアルタイムを売りにしているメディアである

それが一番のメリットだが、そこにも疑問が生まれる


例えば、地震や台風などの災害のような有事の際にはとても効果があるものではある


しかし、地デジという欠陥システムの採用により

何秒かの遅延が生まれ、その役目も、100%果たせているとは言えない


災害時には、ほんの何秒かが命に繋がることもありうる


今後数年間は余震が心配される状況において

それでも地デジを推進するのは、ただの利権問題であって

国民にプラスになることは、1つもない


画質の向上がプラスだ、という人間がいるかもしれないが

プログラムにおいてデジタル化したものはその規格でしか送ることは不可能であって

将来、データ量が増えれば、さらなる遅延に繋がるだけでしかない


一方、アナログは技術の躍進によりいくらでも大きなデータを細かくすることが可能

そして、今のデジタル放送よりも、遅延もなく、圧倒的にきれいな映像を送ることも可能


それをやらないでデジタルはキレイです、といっているだけで

ただの嘘でしかない


同じような問題は過去にもあり、ADSLから光への移行も同じことが言える


多くの人は光よりも、ADSLの方がよかったと思っていると思う


これもただの利権がらみの政策でしかなかった



技術的な説明は、かなりの時間を割くので

これ以上は書かない



次に新聞について


これも、テレビと同じ理由で公平なことは書くことはない


当然、事実のみを書くべきだが

残念ながら、読んでいる記事はすべて、誰かにスクリーミングされた情報でしかない


正しいことを伝えることすら出来ないこのようなメディアは

存在そのものが疑問視されるべきで

必要がないとも言える



しかし、ここにはテレビと違い、別の問題もある


活字を読むことをしなくなる、ということ


テレビには力がないと書いたが

活字には、病理や社会問題を糺す力がある


これは、けっして今の新聞に、このような力があるという意味ではない


ここで、テレビのニュースと、新聞を同じレベルで考える人がいるが

それは大きな間違いの1つ


例えば、活字には時間差があり、その遅れから情報としての価値が薄れる

という考えは間違っている


逆に、活字の良さは、その時間差にある


テレビはライブで、ありのままを伝えることが出来、とてもインパクトはあるが


ただ、それだけでしかない



地震の報道を思い出してもらいたい


確かに、リアルタイムで視覚から情報は持たされたが

そこにはなんの思考も存在しない


圧倒的な臨場感のみであり、なんの力にさえならない


いったい、どんな解決の力になっただろうか?


現地と同じように混乱する人間を増やすだけで何も効果はない




それが、活字では

1t時間や、2時間程度の時間差でも

事実に思考が加わることになる


今後、予想出来る問題や、何が必要か?といった事など

時間があれば、さらに深く思考することが可能だからだ



本来、ニュースがあり

その上に新聞があり、週刊誌、月刊誌と続き書籍という順番で

情報量が深く広くなっていく


現在の新聞は、出来る限りテレビに近づけようとしているが

根本的な「思考する」という行為を忘れてしまっているとしか思えない


そして、現在のような偏向された情報ばかり記事になるような新聞に価値はなく読む必要はないが


「活字を読む」ということは、大切にして欲しい


そして、その言葉をさらに思考して

自分の考えを手にすることを願っている