トライアヌスの後を継いだハドリアヌスですが、最初から数多くの課題を抱えることになりました。
その1、彼が皇帝となった2年後もまだ続いていた紀元115年に起きたユダヤ教徒の反乱
その2、ブリタニアの原住民の反乱
その3、北アフリカのマウリタニア属州で起こった反乱
その4、ドナウ河北岸のサルマティア族の執拗な侵略
まさに、トライアヌスがパルティア戦役に集中していたのを見計らったように帝国の様々な場所での同時多発的な反乱です。
ハドリアヌスは、その事態を収拾すべくパルティア戦役からの撤退を考えます。
我々からすれば、各所の反乱を押さえるために、一旦パルティアから手を引くと言うのは真っ当な判断だと思うのですが、ローマ人の気質からするとそれは「屈辱」以外の何物でもなく、それを皇帝自ら計画するなど考えられないことのようでした。
そのために穏便にしかも目立たぬよう事態を収拾しなければなりませんでした。
パルティアの心配をなくし、サルマティア族の反乱を収めたハドリアヌスに密書が届きます。
「先帝トライアヌスの重臣4人による反ハドリアヌスの陰謀」についてです。
密書に目を通したハドリアヌスは彼の護衛隊である近衛軍団を利用し、この4人をただちに粛清してしまいます。
これまでも国家反逆罪の名で皇帝より死刑に処された者はいましたが、この時は逮捕も裁判もなし。
近衛軍団による謀殺でした。
ハドリアヌスは、自分は直接暗殺の指示は出しておらず、近衛軍団の長アティアヌスの判断だったと後述しています。しかし、真偽はどうでも、それはハドリアヌスが皇帝としての威厳を示すためには必要なことでした。
数多くの戦闘を繰り返し、ローマの領土を最大にし、国家の安定を築き上げたトライアヌスへの信頼が重臣の心に残っている中でのハドリアヌスへの視線は厳しいものでした。そして、それを排除するために行った粛清がさらに市民の信頼を損ねることになります。
しかし、その後大胆な政策や改革で人気を回復。そして皇帝がローマに不在でも国家運営が機能する組織固めを行い、紀元121年、念願の帝国視察の大旅行に旅立つのです。
目的は、帝国の安全保障体制の再構築にありました。治世の2/3を費やした帝国辺境の旅。属州で生まれ、ギリシャっ子と呼ばれたハドリアヌスはその先で何を見ようとしたのでしょうか。