知っておきたい「ハバロフスク事件」2 | 雑雑談談

知っておきたい「ハバロフスク事件」2

前回のつづき


石田三郎たちは、ソ連に連行されてから11回目の正月を、闘争の中で迎えます。
まだ打開策も見つからない。
闘争の行方にも、大きな不安があります。
しかし、彼らの心には、それまでの正月にはない活気があふれます。
体はやせ細っていたけれど、収容所の日本人たちの表情は明るかった。


日本の正月の姿を少しでもここシベリアの収容所の中に実現しようとして、
人々は、前日から建物の周りの雪をどけ、施設の中を、特別に清掃した。
器用な人は、門松やお飾りやしめ縄まで、代用の材料を見つけてきて工夫した。
各部屋には、紙に描かれた日の丸も貼られた。懐かしい日の丸は、人々の心をうきうきさせた。
作業に取り組む日本人の後ろ姿は、どこか、
日本の家庭で家族のためにサービスするお父さんを思わせるものがあった。
それは、自らの心に従って行動する人間の自然の姿だった。
石田三郎は、「無抵抗の抵抗」の中で、次のように語っています。

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ソ連に連行されてから、この正月ほど心から喜び、
日本人としての正月を祝ったことはなかった。
それは、本来の日本人になり得たという、
また、民族の魂を回復し得たという喜びであった
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元旦の早朝、日本人は建物の外に出て整列します。
白樺の林は雪で被われ、林のかなたから昇り始めた太陽が、
樹間を通して幾筋もの陽光を投げていた。
そして全員で、日本のある東南に向かって暫く頭を下げると、やがて誰ともなく歌を歌った。

 君が代は
  千代に八千代に
 さざれ石の 巌となりて
  苔のむすまで

長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてです。
歌いながら、日本国民としての誇らしい気持ちと、家族、故郷への思いがよぎる。
みんな歌いながら、涙が止まらなかった。

「民主運動」と呼ばれる共産主義の嵐の中では、
君が代も日の丸も反動のシンボルだったのです。
歌ったり、貼ったりすることは、全く不可能なことだった。

「民主運動」の中での祖国は、日本ではなくソ連なのです。
共産主義の元祖ソ同盟こそ、理想の国であり、
資本主義の支配する日本は変えねばならない。
だからソ同盟こそ祖国なのだ、というのが、ソ連の考え方です。
多くの日本人は、不本意ながらも、
民主教育の理解が進んだことを認められて少しでも早く帰国したいばかりに
表面を装って生きてきた。

収容所では、表面だけ赤化したことを、密かに赤大根と言った。
心ある者は、このようなことを卑屈なこととして、後ろめたく思ったし、
自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんだ。
しかしそれが今回の作業拒否闘争で、みんなが一致団結して収容所当局と対決することで、
日本人としての自覚が高まり、日本人としての誇りが蘇ったのです。

この湧き上がる新たな力によって、共産主義「民主運動」のリーダーで
、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出され、
彼らは、恐怖の存在ではなくなり、影響力も失った。

浅原正基を中心とする「民主運動」のグループは、
作業拒否闘争に加わらず、同じ収容所の中の一画で生活していた。
闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、闘争を行う青年たちと、
浅原一派の関係は、次第に険悪なものになっていきます。

とくに、彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、
みんなを苛立たせ、怒りをつのらせた。
いまもあるどこかの国のネット工作員みたいなものです。
そして、浅原一味に対する緊迫感は、いつ爆発するかも知れない状態となる。

そりゃそうです。
ソ連兵に拉致されるや否や、祖国への誇りを失い、そくさくと「理想的」社会主義者に
転向しただけでなく、かつて世話になった上官や、互いに助け合い、
支えあった仲間を平気で売り、売られた多くの上官たちや仲間は、
ソ連兵によって無残な殺され方をしている。
その姿を全員がみている。
それだけでなく、こうしてみんなでまとまって抵抗運動をしている最中に
コソコソと仲間の様子をソ連兵に告げ口してもいる。
血気の青年防衛隊は、このままでは、闘争も失敗する、
浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫ります。
しかし石田は、断固として青年たちに申し渡した。

「いかなることがあっても、浅原グループに手を加えてはならない。
それは、ソ連側の実力行使の口実となり、我々の首をしめる結果になる」
ついに収容所側は、浅原グループを全く分離する方針をとるに至ります。

そしてついに運命の3月11日がやってくる。
その日、ソ連は、2500名の完全武装した兵団を繰り出し、
抵抗運動を続ける日本人捕虜たちの大弾圧を行った。

2月3日、第16収容所所長が交代します。
マルチェンコ大佐と代つて着任したナジョージン少佐は、着任当初は、
いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば、
日本人の立場に入り込んで事の解決に努力すると言明します。

しかし事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、
用事があるといって引っ込んでしまい、出て来ない。

そして何かというと「私は新たな立場で着任した。従って以前のことについては何も知らない。
君らの要求に対する回答は、今度できた新指導部(彼の上司のこと)の命令がくるまでは
どうにも動けない」と言い逃れます。
しかも、「作業の問題については、当分、言及しないことにする」と言明したと思うと、
3日もすると、「作業だ。作業に出れば万事解決する」と、作業強要の態度に豹変する。
まるでどこかの国の内閣総理大臣みたいです。責任逃れ、言うことがコロコロ変わる。

1月31日に交代した病院長のミリニチェンコ中佐はまだマシで、従来のソ側の非をさとり、
石田らの病院関係にたいする改善要求を素直に聞きいれ、
彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折ってくれます。

日本人軍医を信頼して、その起用を計画もしてくれた。
病人食の支給にも大いに努めてくれた。
注射、投薬等も多量に施した。
入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる約30名のために、
新たな病窒拡張を計画してくれた。
病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、
勤務員の増加の計画もたててくれた。病院勤務員の手当の増額についても努力してくれた。
ミリニチェンコ中佐の着任によって、ソ連人病院勤務者の態度が一変して親切になった。

しかし「計画」されたものは、まるで実施されなかった。
一部実施されたものも2週間たらずのうちに、また、もと通りに戻ってしまった。
ミリニチェンコ中佐の上役である、ハバロフスク地方官憲当局者が、
彼の申請を却下したからです。
とにもかくにも、政治国家というものは、権限がすべてを左右する。

ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとり、どんなに改善に真剣に取り組もうとしても、
彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、
所詮、無駄骨折りになるのです。それが政治大国というものの仕組みです。

そういう政治体制が「理想」と考えるヒトは、要するに自分だけはいいおもいができる、
自分だけはいいおもいを実現できると身勝手な解釈をしている偏狭な人物です。
そしてそういう人種が政権を担ったとき、実際に行われるのは、
権力・権限による犠牲しかない。

これに対し、日本人は相互信頼主義です。
指示や命令、規則やきまりといった外の力ではなく、
内なる力に衝き動かされ、その結果、人間として一番大切な生命をかける。
覚醒した日本人たちが結束して闘う姿は、同じ収容所の外国人を驚かせます。
ハバロフスクには、中国人、朝鮮人、蒙古人がかなりの数、収容されていた。
彼らの代表が、ある時、闘う日本人を訪ねて共闘を申し込み、こう発言します。

「私たちは、これまで、日本人は何と生気地がないのかと思っていました。
日本に帰りたいばかりに、何でもソ連の言いなりになっている。
それだけでなく、ソ連に媚(こ)びたり、へつらったりしている。
情けないことだと思いました。
これが、かつて、私たちの上に立って支配していた民族か、
これが日本人の本性かと、実は、軽蔑していました。
ところが、この度の一糸乱れぬ見事な闘いぶりを見て、私達が誤っていた。
やはり、これが真実の日本人だと思いました。
私達も出来るだけの応援をしたい」

石田三郎達は、この言葉に感激した。
そして、これまでの自分たちが軽蔑されるのは当然だとも思ったそうです。

ソ同盟万歳を叫び、赤旗を振って労働歌を歌い、
スターリン元師に対して感謝状を書くといった、同胞のこれまでの姿を、
石田三郎は、改めて思い返し、日本人収容者全体の問題として恥じた。
いくつもの抑留者の手記で述べられていることなのですが、戦いに敗れて、
同じように強制労働に服していたドイツ人は、収容所側の不当な扱いに、
毅然とした態度をとったといいます。

ある手記によれば、メーデーの日に、
日本人が赤旗を先頭に立てて祝賀行進していると、
一人のドイツ人捕虜の若者が、その赤旗を奪いとって地上に投げ、
「日本の国旗は赤旗なのか」と怒鳴った。
この若者は、同じようにソ連から理不尽な扱いを受けている仲間として、
日本人が共通の敵であるソ連に尾を振る姿が許せなかったのです。

しかし、自分の身よりも他人を気遣う日本人には、ドイツ人達のような行動がとれない。
自分が一線を飛び越えることで、他の日本人の仲間、
他の虜囚たちに迷惑をかけることを、どうしても気遣う。

自分が暴走するのは簡単です。
しかしそのことで、仲間たちみんなに迷惑がかかったら、取り返しがつかない。
ひとりひとりに、みんな祖国の家族が待っているのです。
だから、耐えた。我慢した。
自分がつらいときは、他人もつらい。だから我慢して、みんな一緒に日本に帰ろう。
彼らはそう思い、10年間、耐え忍んできた。
でも、内なる力が、全員の心となったとき、日本人は変わる。
ひとりひとりが自らの意思で闘い、いさぎよく命をかける。

昭和31年の2月も終わろうとする頃、石田たちの作業拒否闘争は膠着状態となります。
作業拒否を宣言してから2ヶ月、中央政府に対する請願文書の送付も、
現地収容所に握りつぶされているのか、まるで中央政府から返答がない。
日本人たちの団結は固く、志気も高いけれど、
何とか、この状態を打開しなければという危機感が高まります。
石田たちは、知恵を絞った。
人材には事欠かないのです。
元満州国や元関東軍の中枢にいた要人が集まっている。日心会みたいなものです。
かつて陛下の軍隊として戦った力を、今は新たな目標に向け、
新たな大義のために役立てているのです。みんな真剣に考えた。
収容所側を追い詰め、中央政府に助けを求めざるを得ない状態を作り出す手段。
そして、ひとつの結論を導き出します。

「断食」をする。

収容所の日本人全体が断食し倒れ、最悪の場合、死に至ることになれば、
収容所は中央政府から責任を問われる。
収容所は、そういう事態を最も恐れるだろう。
それで現状のこう着状態を打開できるかもしれない。
全員一致して、断食闘争に参同します。
そして密かに計画が練られ準備が進められた。
健康で生きて祖国に帰ることがこの闘争の目的です。
断食をいつまでも続け、自滅してしまったのでは元も子もない。
ただでさえ、みんなの体力も落ちている。

そこで、みんなが少しずつ蓄えていた日頃配られた食料の一部や、
小麦粉から密かに作った乾パンなどを、貯蔵し、秘かに断食闘争に使おうということになった。
完全な断食によって、体力を消耗し尽くし、倒れてしまったら元も子もないからです。
そして断食闘争に入った場合、相手が変化して中央政府が何らかの行動が入るまでに、
およそ一週間と見通しをつけた。
闘争代表部は、断食宣言書を作り、収容所のナジョージン少佐に渡します。

「作業拒否以来70日が経過しました。この間、何等誠意ある対応はみられません。
ソ連邦政府の人道主義と平和政策を踏みにじろうとする地方官憲の卑劣な行為に対して
我々は強い憤激の念を禁じ得ません。
そこで、今、自己の生命を賭して、
即ち絶食により中央からの全権派遣を請願する以外に策なきに至りました。
3月2日以降、我々は、断固として集団絶食に入ることを宣言します」

そして断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506名が断食に入る。
このような多数が一致して断食行動に出ることは、
収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽(ろうばい)します。
彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかしたりした。
しかし、日本人の意志は固く、ある者は静かに目を閉じて座し、
ある者は、じっと身体を横たえて動かない。
それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、
不気味な静寂は侵し(おか)難い力となってあたりをおおいます。
収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを一日二回、一回に二枚をお湯に浸してのどを通す。
空腹に耐えることは辛いことであるが、零下30度を越す酷寒の中の作業を初め、
長いこと耐えてきた様々な辛苦を思って、みんな堪えた。
そして、これまでの苦労と違うことは、ソ連の強制に屈して奴隷のように耐えるのとは違って、
胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることです。
一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気が微かに漂うのを、
日本人の研ぎ澄ました神経は逃さなかった。静かな緊張が支配した。

3月11日午前5時、異常事態が発生します。
気温零下35度、全ての生き物の存在を許さぬような死の世界の静寂を、
ただならぬ物音が打ち破った。

「敵襲! 起床」
不寝番が絶叫する。
「ウラー、ウラー」

威かくの声と共に、すさまじい物音で扉が壊され、ソ連兵がどっとなだれ込んできます。
「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令だ。日本人は、戸外に整列せよ」
入り口に立った大男がひきつった声で叫び、それを、並んで立つ通訳が、日本語で繰り返した。
日本人は動かない。
ソ連兵は、手に白樺の棍棒を持って、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えている。
大男が手を上げてなにやら叫びます。
ソ連兵は、主人の命令を待っていた猟犬のように、突進し、日本人に襲いかかった。
ベッドにしがみつく日本人、腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵、
飛びかう日本人とロシア人の怒号、収容所の中は一瞬にして修羅場と化していた。

「手を出すな、抵抗するな」
誰かが叫ぶと、この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響いた。
長い間、あらゆる戦術を工夫する中で、いつも合言葉のように繰り返されたことは、
暴力による抵抗をしないということです。
今、棍棒を持ったソ連兵が扉を壊してなだれこんだ行為は、
支配者が、権力という装いを身につけてその実、むき出しの暴力を突きつけた姿です。
暴力に対して暴力で対抗したなら、更なる情け容赦のない
冷酷な暴力を引き出すことは明らかです。
そうなれば、全ては水の泡になる。
予期せぬ咄嗟の事態に対しても、このことは、日本人の頭に電流のように走った。
「我慢しろ、手を出すな、全てが無駄になるぞ」
引きずり出されてゆく年輩の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えてゆく。
柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、
追い立て、ソ連兵は、全ての日本人を建物の外に連れ出した。
収容所の営庭で、勝者と敗者が対峙した。
敗れた日本人の落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、
それ見たことかという冷笑が浮かんでいます。
ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころは常に警戒したことであるが、
断食宣言後は、まずは、中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していたのです。
予想外の展開になった。

もはや命がないのか。。。
「首謀者は前に出よ!」
石田三郎は、ポチコフ中将の前に進み出ます。
ボチコフは、中央政府から派遣された将官です。
あたりをはらう威厳を示してイスに腰掛けている。
石田は敬礼をし、直立不動の姿勢をとって、将官の目を見詰めます。

沈黙・・・・
緊張・・・・

「こいつがソ連の中央政府の代表か」
石田の心には、走馬灯のように、かつて、満州になだれ込んだソ連軍の暴虐、混乱、
逃げまどう民間人の姿、長い刑務所での労苦、収容所の様々な出来事が、よみがえります。
悔しさ、悲しさ、怒り・・・
こみあげる感情の中で、石田は、あることに気がつきます。
ポチコフ中将の態度が、これまでのソ連軍のそれとはなにか違っている。
石田は、この時になって、はっと思い当ります。
さっき、ソ連兵が収容所に踏み込んできたとき、彼らは白樺の棍棒を持っていた。
銃を使わなかった。

石田の胸にずしりと感じるものがあった。
石田三郎は、日本人の誇りを支えにして貫いてきたこの長い闘争を改めて思った。
こみ上げる熱いものを抑え、彼は胸を張って発言した。
「私たちがなぜ作業拒否に出たか、そして、私たちの要求することは、
中央政府に出した数多くの請願書に書いたとおりであります。改めて申し上げると・・・」

「いや、主なものは、読んで承知しています。改めて説明しなくもよろしい。
いずれも、外交文書としての内容を備えている」
石田の言葉を遮ったポチコフ中将の言葉には、
立派な文章だと誉めている様子が言外に感じられた。

「しかし」
とポチコフ中将は、鋭い目で石田を見据え、一瞬、間をおいて強い語気で言い放った。
「お前たち日本人は、ロシア人は入るべからずという標札を立てて
ロシア人の立ち入りを拒んだ。
これはソ連の領土に日本の租界をつくったことで許せないことだ」

これは、石田が拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、
自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指している。
石田は、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことであり、驚かなかった。
ポチコフの言葉には、処罰するということが含まれている。

石田が黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声できいた。
「日本人側にけが人はなかったか」
「ありませんでした」

石田は続けます。
「お願いがあります。私たちの考えと要求事項は、この日のために、
書面で準備しておきました。
是非、調査して、私たちの要求を聞き入れて頂きたい。
このために日本人は、死を覚悟で頑張ってきました。
私の命は、どうなってもいい、他の日本人は、処罰しないで頂きたい」

「検討し、追って結論を出すから、待て」
会見は終わった。形の上では、ソ連の武力弾圧に屈することになったが、
日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられます。
病人の治療体制は改善され、中央の病院は拡大され、
医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行なうことが実現された。
第一分所を保養収容所として経営し、
各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められた。
その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善された。
そして石田三郎を中心とした、闘争の指導者に対しては、
禁固一年の刑が科され、彼らは別の刑務所に収容された。

この事件について、瀬島龍三は、回顧録で次のように述べています。

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この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからであり、
仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら惨たんたる結果に終わったかもしれない。
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このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生し、
ソ連による武力弾圧は、翌年3月11日に行われました。
そしてその年の12月26日、興安丸が舞鶴港に入港した。
最後の日本人シベリア抑留者1025人が、日本に帰国した。
ハバロフスク事件の責任者石田三郎の姿もその中にあった。
一足先に帰国していた瀬島龍三は、平桟橋の上で、
石田三郎と抱き合って再会を喜びあったそうです。

この事件について、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長
アレクセイ・キリチェンコは、その著書「シベリアのサムライたち」の中で、
以下のように語っています。

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第二次世界大戦後、64万人に上る日本軍捕虜がスターリンによって旧ソ連領内へ不法護送され、
共産主義建設現場で奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、
近年ロシアでも広く知られるようになった。
しかし、ロシア人は当局によって長くひた隠しにされた抑留問題の実態が明るみに出されても、
誰一人驚きはしなかった。
旧ソ連国民自体がスターリンによってあまりに多くの辛酸をなめ、犠牲を払ったため、
シベリアのラーゲルで6万2千人の日本人捕虜が死亡したと聞かされても
別に驚くほどの事はなかったからだ。

とはいえ、ロシア人が人間的価値観を失ったわけでは決してなく、
民族の名誉にかけても日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したいと考えている。
今回ここで紹介するのは、私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、
偶然に発見したラーゲリでの日本人抑留者の抵抗の記録である。

(中略)
敵の捕虜としてスターリン時代のラーゲリという地獄の生活環境に置かれながら、
自らの理想と信念を捨てず、あくまで自己と祖国日本に忠実であり続けた人々がいた。
彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、不当なスターリン体制に抵抗を試み、
収容所当局を困惑させた。
様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、ほぼすべてのラーゲリで起きており、
1945年秋の抑留開始から最後の抑留者が帰還する1956年まで続いた。
(日本人による抵抗運動のことを)ソ連の公文書の形で公表するのは今回が初めてとなる。
半世紀近くを経てセピア色に変色した古文書を読みながら、
捕虜の身でスターリン体制に捨て身の抵抗を挑んだサムライたちのドラマは、
日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた。
(中略)

これは、総じて黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が一斉に決起した点で
ソ連当局にも大きな衝撃を与えた。
更に、この統一行動は十分組織化され、秘密裏に準備され、
密告による情報漏れもなかった。

当初ハバロフスク地方当局は威嚇や切り崩しによって地方レベルでの解決を図ったが、
日本人側は断食闘争に入るなど拡大。
事件はフルシチョフの下にも報告され、
アリストフ党書記を団長とする政府対策委が組織された。
交渉が難航する中、ストライキは三ヶ月続いたが、結局内務省軍2500人が
ラーゲリ内に強行突入し、首謀者46人を逮捕、籠城は解除された。
しかし、兵士は突入の際銃を持たず、日本人の負傷者もほとんどなかった。
スト解除後の交渉では、帰国問題を除いて日本人側の要望はほぼ満たされ、
その後、労働条件やソ連官憲の態度も大幅に改善された。
1956年末までには全員の帰国が実現し、ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである。
(中略)
極寒、酷使、飢えという極限のシベリア収容所でソ連当局の措置に抵抗を試みた
人々の存在は今日では冷静に評価でき、日本研究者である私に
民族としての日本人の特性を垣間見せてくれた。
日本人捕虜の中には、浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、食料ほしさに仲間を密告する者、
ソ連当局の手先になって特権生活を営む者なども多く、
この点も日本研究者である私にとって、日本人の別の側面を垣間見せてくれた。
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この事件の総括は、上に示すアレクセイ・キリチェンコ教授のまとめの通りと思います。

日本人の中には、
浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
 天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
 食料ほしさに仲間を密告する者、
 ソ連当局の手先になって特権生活を営む者など
もいた。

いまの日本でも同じです。
日本人の中には、日本の歴史・伝統・文化を学ぶこともせず、
安易にGHQの日本解体工作を信じ、天皇を否定し、国旗や国歌を否定し、
カネ目当てに他国に媚を売るような恥ずべき人もいる。
しかし、それでもなお多くの日本人は、いまでも天皇を愛し、自分より子や配偶者、
部下たちの幸福を第一に考え、誰かのために、
何かのために貢献できる生き方をしようと模索していると思います。

戦前の通州事件や、尼港事件の際、殺された多くの日本人たちは、
「日本人は逃げろ~!」と叫んだといいます。
戦後の阪神大震災のときも、多くの日本人は、自分より先に、
家族を助けてくれと救助隊に懇願して果てた。

そしていまなお、多くの企業戦士、多くの母親たちは、規則やきまりなど、
外の力で動くのではなく、会社を守ろう、部下を守ろう、家族を守ろう、
子に恥じない親になろう、
父母に叱られない自分になろうという、内なる力に衝き動かされ、毎日を必死に生きている。
それは、ひとりひとりの人間として一番大切な生命をかけた戦いでもある。
日本は法治国家だという人がいます。
たしかに、今の日本はそうかもしれない。
しかし、非常に治安が良かった江戸時代や、戦前の日本には、
現代日本にあるような事細かな法律や省令、政令なんてものはなかった。

そんなものはなくても、日本人ひとりひとりの中にある、道義心によって、
現代社会よりもはるかに安心して暮らせる日本ができあがっていた。
わたしたちは、すくなくとも過去を否定するばかりでなく、現在と未来のために、
過去の歴史からもっともっといろいろなことを学べるのではないかと、ねずきちは思います。

※本編は群馬県議員中村紀雄氏のHP「今見るシベリア強制抑留の真実」を基に
構成させていただきました。
URL=http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/siberia/02-01.html