知っておきたい「ハバロフスク事件」1 | 雑雑談談

知っておきたい「ハバロフスク事件」1

ハバロフスク事件
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-737.html

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いやぁ~、こんな話もあったんですねぇ~。
ねずさんは3回に分けて掲載されていましたが、一気に読んでしまいました。
シベリアで抑留生活をしていた方はホント大変だったんですね。
ウルウルしましたよ、戦争は悲惨です。
ねずさんのブログはよく読んでいますが、なぜだか安倍総裁を推しています。
原発OK、消費税増税OK、TPP OK、という事なんでしょうか???
まぁ、よくわかりませんがこの話はいい話です。
2回に分けて転載します。

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今日のお話は、敵性捕虜として、
スターリン時代の極寒の捕虜収容所で地獄の生活を送りながら、理想と信念を捨てず、
祖国日本を信じて戦った人たちがいた、というお話です。

山崎豊子の小説「不毛地帯」の中に、シベリアで抑留生活を送っていたある青年が、
腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、
「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いて下さい」と云い、
直立不動の姿勢で、“海行かば”の歌を歌う。
死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。
歌い終わると身を翻(ひるがえ)して20Mの地上に飛び降りて死ぬ、
という事件が出てきます。

ねずきちは、ずいぶん昔になるけれど、
ちょうど通勤の電車の中でこのシーンのところを読んでいて、涙が止まらなくなり、
ずいぶんと恥ずかしい思いをした記憶があります。
小説の中に出てくるこのシーンは、実話をもとに構成されています。

実話は、以下のようになっています。
大東亜戦争終結後、ソ連は、旧関東軍の将兵をシベリアに抑留するのだけれど、
このときのソ連兵の態度は、まったく威圧的で情け容赦なく、
「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。
貴様等は、敗者で、囚人だ」と、何かにつけ怒鳴った。

日本人抑留者は、誇り高い旧関東軍の兵士たちです。
ソ連兵の威圧的な言葉に、どれだけ怒りと屈辱感をたぎらせていたことか。
そもそも終戦時、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされていた。
満州には、実際に戦えるだけの戦力がなかった。
そこへいきなり終戦間際に参戦してきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑(いや)しい
見下げ果てた連中が、「自分たちは勝者である」と威圧的態度をとる。

腹がたって仕方がないが、生きてさえいれば、いつの日か、必ず祖国に帰ることができる。
生きて家族に会うことができる。その一点のためだけに、
彼らは、腹の立つのをぐっとこらえて、耐え続けた。

しかし従順に職務をこなす日本人捕虜たちに対して、
ソ連兵が行ったのは、徹底的な酷使です。
日本人は黙って言うことを聞くから、もっともっと酷使しちまえ!人を人として考えない。
モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。まるで鬼畜外道の振舞です。
そのなかを、シベリア抑留者たちは、耐えに耐えた。そして10年の間、耐え続けた。

昭和30年6月のことです。

ハバロフスクの捕虜収容所に、ミーシン少佐という監督官兼保安将校がいた。
ミーシンは、日本人みんなから猛烈に嫌われていた。

ある日、ミーシン少佐は、は零下30度の身を切るような寒さの中、
日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をすると、
これを踏み消して作業を強制します。
濡れた衣服のままでは、体温を奪われ、死んでしまいます。

あまりのことだと班長が抗議する。
するとミーシンは、その班長を怒鳴りつけ、銃を突きつけて営倉処分にした。
ひとりの青年が堪忍袋の緒を切ります。
彼は手にした斧で、ミーシンを殴りつけた。
ミーシンが倒れる。
10年間おとなしいだけだった日本人が怒った。
その場に居たソ連人は恐怖に駆られてみな逃げ出してしまいます。

「たいへんなことをしてしまった。みんなに迷惑がかかる」

激情に駆られた青年は、すぐに気が付きます。
とっさに青年は、近くにあった起重機に登る。
起重機の先端に立った青年は、腰に巻いた白い布を取る。
そして指を噛みちぎって血流し、白い布に自らの血で日の丸を描いた。
彼はその日の丸を風になびかせる。
そして大きな声で空に向かって「海ゆかば」を歌った。

 海行かば 水漬く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
 大君の 辺にこそ死なめ
 かえりみはせじ

歌い終わると、彼は、起重機の上からみんなを見渡し、そこから飛び降りようとした。
それまで、ただ黙って固まっていた仲間たちは、そのとき、はっと気がつきます。
「やつを、死なちゃいけない!」
10年間、悔しい思いをしながら、
日本にみんなで揃って帰国することだけを夢見て一緒に闘ってきた仲間です。
仲間たちは、起重機に駆けあがると、青年の投身自殺を必死に止めた。
こんこんと説得した。
青年に自殺を思いとどまらせた。

青年は、ミーシン少佐を、斧の刃でなく峰の部分で打っています。
峰の部分で撃ったということは、あきらかに殺意がないということです。

しかし彼は、公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂犯にされてしまう。
そして既に科されていた戦犯としての25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科された。
そして別な監獄に送られた。
以上が実際にあった出来事です。

山崎豊子の小説以上の鬼気迫る現実がそこにあります。
シベリアというのは、極寒の地です。
大東亜戦争の終戦の7日前、突然欲をかいて参戦したソ連は、
いきなり満洲・樺太・アリューシャン列島にいた日本人に襲いかかった。

当時、満洲にいた日本軍は、すでに歩兵銃すら不足する状態です。
全部南方戦線に送っちゃった。
兵士たちは戦いに際しては、味方に残るごく少量の武器で抵抗しながら、
敵の武器を奪い、それでかろうじて戦線を死守するくらいのことしかできない情況だった。

それでも、各地の日本兵は善戦し、120万のソ連の大軍を随所で蹴散らした。
しかし、終戦。

軍は、本国の命令で動くものです。
本国から戦闘修了の命令があれば、どんなに勝っている戦いでも、戦闘を止め、
敵の武装解除に応じなければならない。それが軍隊というものです。
だから武装解除した。

当時の満洲は、戦争中でありながらも、
まだまだ都市整備のためのインフラが各地で建設中だった。
道路や線路、橋梁、建物を作る民間、あるいは軍隊の技術者や職人もたくさんいた。
発電所施設の建設を行う者、施設の管理や整備を行う者たちも、まるごと満洲に残っていた。
そしてその家族もいた。

ソ連は、そうした民間の技術者集団達を含めて、彼らをまるごとシベリアに連れ去ります。
そしてソ連邦各地の都市インフラの整備を、無報酬で彼らにやらせた。

君たちは戦争犯罪者であるにも関わらず、食わせてやっているのだから、報酬なんてない。
栄養が足りようが足りまいが、生かしてもらっているだけでも、ありがたく思え、というわけです。

そして日本人の将兵、民間技術者たちは、ソ連に抑留され、
ソ連各地の都市インフラの整備に使役された。ついでに満洲にあった各種民生用機材等も、
ソ連に運ばれ、彼の地のインフラ整備や、農作業に使われた。
「ソビエト共産主義革命は、人々は労働から解放され、
国費をもってすべての人たちに安心と安定と報酬が与えられる理想国家である」

その幻想は、裏からみれば、日本人、ドイツ人、支那人、朝鮮人、ポーランド人、
その他ソビエト国内の政治犯などのシベリア抑留者、つまりソビエトからみた犯罪者たちが、
過酷な労働に使役され、支えているにすぎない。
働かなくてもみんなが平等に国から報酬を受け取ることができる社会主義理想国家といったて、
どこかで誰かが労働してみんなの生活を支えなければならない。主義は理想でも、
現実は古代の奴隷を政治犯と軍事捕虜に置き換えただけなのがソビエト社会主義です。

そしてソ連という国、ていうか共産主義や社会主義国家というのは、
どこでもそうだけれど「政治」が全てに優先する。
医療も、政治が優先する。

どういうことかというと、「政策」で、入院患者は全体の2%以内と決められれば、
それを越える入院患者は、症状の如何に関わらず、いっさい入院は許されない。
仕事を休むことも認められない。
そんなバカな、と思うかもしれないけれど、それが「政治」が優先する国家の現実です。
日本でも最近、支那や旧ソ連、あるいは北朝鮮万歳などと唱える政党が、
現実に政権を取ったとたん、政治優先の事業仕訳などという暴虐が、
平気でまかり通るようになった。
左翼主義者、反日主義者、政治主導を唱える者が、政権を取ると、こうした偏向は、
今後ますます強まるとみた方がいい。

ソ連のシベリアの捕虜収容所では、どのような労働を課せられるかは、
軍医の体位検査によって決定します。
体位検査は1級から4級まである。
そして4級以外は原則として収容所外の工場、学校等の建築作業に出ます。
しかし戦後10年を経過して、かつては屈強だった若者も、ガリガリに痩せた病弱となり、
作業できる人員が漸減してしまう。
4級認定者も、何%以内と決まっています。
だから、実質4級(インワリード=不具者という呼名)でも、3級に認定され、
屋外の建築作業にかり出された。

そもそも日本人の体位は、ソ連人とくらべて著しく劣っています。
これでは作業割当に支障をきたすというので、
日本人はソ連人より1階級ずつ格上げした体位検査が用いられたそうです。
つまり、ソ連人の2級、3級該当者を、日本人を1級、2級にした。
そしてソ連人の労働者に適用する作業ノルマを、そのまま日本人に遂行させた。
むちゃくちゃです。

さらに旧日本軍では、重労働に要するカロリーを3800と規定していたのだけれど、
ソ連収容所では、接取カロリーを2800と規程した。
カロリーを奪えば、体力が落ちて抵抗力を奪えるから、扱いやすくなるし、
与える食事の総量も減らせる。

で、どうなったかというと、実際には、日本人軍医4名の共同調査・算定の結果では、
やっと2580しか与えてもらえなかった。
だから日本人のシベリア抑留者たちは、裸になって並んだとき、
前に立っている男のケツの穴が見えたそうです。
尻の肉まで削げ落ち、みんなガリガリにやせ細っていたのです。


それだけ酷い待遇、環境に置かれながら、日本人の働き振りは昭和30年の第一・四半期に
ロシヤ共和国第一位、第11四半期には全ソ連第一の成績をあげています。
まるで幽鬼のさながらに痩せさらばえていながら、
それでも全ソ連第一の建築成果を挙げている。
まさに日本人、恐るべしです。
石田三郎著「無抵抗の抵抗」に以下のような描写がありますので転載します。

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ところがこれに反して、現場監督側および収容所当局の日本人に対する態度は
どうであつたろうか。
彼らの基本的な態度といえば、それは従順な日本人を徹底的に搾つて
自分らの功績をあげること、
日本人は最も憎むべき重大戦犯であるから死ぬまで酷使するということにあった。
このため現場側と収容所側は申し合せて、将校一、下士官一の監視係を任命し、
毎日終日私たちの作業を監視させた。
勿論彼らは建築についてはズブの素人であり、
仕事の段取その他について知るはずもなかつた。

その彼らが事毎に私たちの作業に干渉して作業能率を低下させる許りでなく、
現場側と結託して私たちの給金査定にまで容喙するし、時には作業未遂行、
あるいは国家財産の故意の損耗を理由に懲罰作業をさえ強制する。

また零下20度、30度のトラック上の寒風に吹きさらされて現場にたどり着く私たちに、
仕事前の暖を取ることさえ禁じたり、
雨にぬれた衣服を乾燥するため焚火している火を踏み消して作業に狩り出す。
当然負傷などの災害が予想される危険な作業にまで追い出し、
これを拒絶すれば直ちに営倉に入れる。

そしてあらゆる言葉の二言目には、
「貴様らは囚人だ。いうことを聞かなければ、また監獄に送るぞ。」
と脅迫するなど目に余るものがあつた。
ところがその反面、彼らは日本人の大工に私物の家財道具を造らせたり、
自宅の薪用に板切れや棒切れを現場側に無断で搬出させたりさえもしたのである。

また現場側で、ソ連側最高貴任者が監督を集めて訓示を与えるとき、
「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい。」
と放言したり、

私たちにたいしても、彼らが民間人でありながら営倉に入れるぞと、
おどしたりするのは何時ものことであった。
何しろ収容所当局、現場当局に対する不満は数限りなくあった。
要するにソ連側は、私たち日本人を奴隷としてしか取り扱つてはくれなかった。
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昭和30年11月26日、ソ連兵は、政治部将校の立会いの下で、
営内の軽作業に従事していた病弱者26名を、営外作業に適するとして無理に作業に出します。
シベリアの11月の末といえば、零下20~30度の酷寒です。
病弱者たちの病状は悪化し、収容所にたどり着くや倒れる者が何人も出た。
ところが12月15日になると、ソ連の将校たちは、
さらに他の病弱者65名に営外作業を命ます。

ハバロフスク捕虜収容所では、みんなで必死に嘆願します。
その分、自分たちが働くから、病弱者に無理はさせないでもらいたい。
しかし、ソ連兵は耳を貸しません。
病状は悪化し、血圧が170、180以上になる者が多くなり、
中には、200を越す者も出る始末となった。

寒風のなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、
ある者は虚空をつかむ幽鬼のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張った。
囚人は、作業休を認められない限りいかなる状態でも休むことは許されない。
休めば、非合法のサボタージュとみなされる。
「病弱者営外作業に追い出し」というのは、要するに「病弱者殺害が目的」としか思えない。
戦争が終わったのが昭和20年、それからまる10年です。

日本に帰えることだけど夢見て、みんなで頑張ってきた。
ちからをあわせ、励まし合って、どんな無理難題にも耐えてきた。
それなのに、ここまで支え合ってきた仲間の命さえも、ここで失わなければならないのか。
誰も死んでほしくない。仲間を死なせるわけにいかない。
みんな一緒に、日本に帰るんだ。
これ以上は、もう我慢できない。
それまで、10年以上にわたって、従順でおとなしかった日本人が、
このとき、ついに、ソ連兵の横暴に、立ち上がります。


日本人たちは、班長会議を開いた。
「このままでは皆死んでしまうぞ」
「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。
そうすれば、病弱の者は、この冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」
「では、どうするんだ?!」

収容所側にいくら懇願しても誠意のある対応は期待できない。
このまま自滅を待つのか・・・。
ひとりの班長が言います。
「自滅するよりは闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥じだ」
「そうだ。同感だ」
「しかしどのように戦うのだ」
「戦うなら、勝つ戦いをしなければならない。
さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが
水の泡になる」
「先ず作業拒否だ」
「そうだ、そうだ」

いろいろな意見が交わされます。
内容は、生きて日本に帰れるかどうかというものすごく重大なことです。
だから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになった。
そして12月19日から、各班の結論は、作業拒否で戦うということに決まった。
全体の方針は決まります。
しかし作業拒否だけでは、ラチがあきません。
代表を決め、固い組織を作って、死を覚悟の「交渉をやろう!」ということになった。

班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎です。
要請を受けた石田三郎は、作業拒否を実行する班はどの班かと聞きます。
すると班長会議の面々は「浅原グループを除く全部だ」と答えた。
浅原というのは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー
浅原正基(あさはらせいき)のことです。

この浅原正基という人物は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員でありながら、
シベリア抑留の際、イワン・コワレンコというソ連KGBの中佐と結託して、
元上官などを次々に告発し、貶め、辱め、殺害に導いた男です。
すすんでソ連兵に媚を売り、日本人の同胞を辱め、売り飛ばし、
自らソビエト社会主義の先鋒を勤めることで、自分だけがいい思いをしようとした裏切り者です。
彼は袴田陸奥男とともに抑留者から恐れられ、「シベリア天皇」(最高権力者という意味)
と呼ばれた。

浅原は、仲間を売ることでソ連KGBから自分だけ援助を受け、特権階級者になろうとした。
けれど、それを10年続けてソ連が浅原に与えた身分は、単なる「抑留者」です。
軽薄な裏切り者、仲間を売るような卑怯者を飼っても、しょせんは信用などできない。
ソ連兵だって、それくらいのことはわかります。
結局浅原は、ソ連兵にもKGBにも信用されず、仲間たちからも見放されてしまう。
売国者の末路というものは、こういうものです。


石田三郎は、作業拒否闘争の代表を引き受けた。
しかしそれは、死を覚悟しなければならない大変なことです。
だけれど、みんなの熱意に動かされ、代表を決意した。
石田はみんなの前で言います。
「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。
少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。
私には、親もない、妻もない。ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。
私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。
皆さん、始める以上は、力を合わせて、
最後まで闘い抜きましょう」

それまでにも、政治犯のソ連人や、ドイツ人その他による捕虜たちのストライキや暴動は、
あったのだけれど、これに対するソ連の弾圧は、すさまじいものです。
同朋人であるソ連人が収容されている収容所でのストライキや暴動でさえも、
戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑されている。
石田を初めとする日本人捕虜たち全員が、ソ連のこの方針を知っている。

それでも、仲間の死を座して見過ごすことができない。
仲間を死なせるわけにいかない。
という追い詰められた心情が、浅原グループを除く収容所のみんなにあった。
こうしてハバロフスクの日本人捕虜769名の戦いが始まります。
この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人です。
知的レベルが非常に高い。女性もいた。まるで日心会メンバーです。
このような人々が心の底から結束して立ち上がった点に、ハバロフスク事件の特徴があります。

日本人捕虜たちの要求事項は次の通りです。

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1 皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、
全員を休養させること
2 病人や高齢者を作業に出さないこと
3 高齢者や婦女子を即時帰国させること
4 留守家族との通信回数を増やすこと
5 今回の事件で処罰者を出さぬこと
~~~~~~~~~~~

そして、戦術としては、

(1) 暴力は絶対に使わない
(2) 収容所側を刺激させないため「闘争」という言葉は避け、
   組織の名称は「交渉代表部」とし、運動自体も「請願運動」と呼ぶことにする。

石田三郎は全員を前にして言います。

「私たちの最大の目的は、全員が健康で祖国の土を踏むことです。
これからのあらゆる行動は、このことを決して忘れることなく、
心を一つにして目的達成まで頑張りぬきましょう」

長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきた人々です。
日本人としての誇りさえも失いかねない、虜囚としての長い服従の日々でした。
その日本人捕虜が、収容されて初めて、日本人としての誇りを感じ、人間として目覚めた。
石田の声は静かだったけれど、みんなの心には熱いものがこみあげます。
石田は、有効な作戦を立てるため、また、重要な問題にぶつかったとき、
アドバイスを受けるための顧問団を編成します。
顧問団には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいる。
石田は顧問団の名前は、いっさい公表せず、個人的に密かに接触した。
これらの人々に、危険が及ばぬようにするためです。
顧問団の中には、元関東軍参謀瀬島龍三もいます。
瀬島は、回顧録の中で次のように語っている。

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平素から私と親しかった代表の石田君は決起後、夜半を見計らって頻繁に
私の寝台を訪ねてきた。
二人はよそから見えないように四つん這いになって意見を交換した。
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瀬島は、石田に請願書の提出を助言した。
中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表などに、請願文書を送るのです。
そしてその文書は、すべて、同様の一定の外交文書としての形式を整える。
ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない
地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願する。
例えば、昭和31(1956)年2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、

「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」
と中央の政策を最大限誉め上げ、
それにもかかわらず、当収容所は、
「労働力強化の一方策として、計画的に病人狩り出しという挙に出た。
収容所側の非人道的扱いに耐えられず生命の擁護のため止むを得ず、
最後の手段として作業拒否に出た」

だから「私達の請願を聞いて欲しい」と結んでいます。
また同年1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、

「モスコー政府の人道主義は、今、地方官憲の手によって我々に対して
行なわれているようなものではないことを確信し」と表現した。

これらは、皆、瀬島龍三のアドバイスによるものだけれど、作戦としては、
中央を持ち上げて地方をたたく。そしてあくまでも、外交上の筋道をキチンと通す。
おそらく収容所側は、作業拒否に対して

「これは、まさに暴動である。ソ連邦に対する暴動である。
直ちに作業に出ろ」と執拗に迫りますし、中央に対してもそのように報告する。

そして減食罰などを適用しながら、
一方で、「直ちに作業に出れば、許してやる」といってゆさぶりをかけてくる。
これらは当然予期できることです。

それに対抗するためには、とにもかくにもルールをきちんと守り、
筋を通しきっていかなければならない。
さらに首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることも考えられます。
だから石田三郎は、各班から護衛をつけてもらって、
夜毎に違った寝台を転々とすることなども取り決めた。

いよいよ12月19日、作業拒否による抵抗運動が開始されます。
石田は、正々堂々、分所長スリフキン中尉に面会を求めた。
そしてスリフキンの前で敬礼をし、直立不動の姿勢をとる。
そして姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告したうえで、

「我々は12月19日、本日作場出場拒否の方法をもつて請願運動に入ります。
この解決について、当ハバロフスク最高責任者と会見交渉したい」と申し入れた。

分所長スリフキン中尉は「今からでも遅くないから作業に出よ、問題はその後に相談しよう」と、
作業を督促する。お前たちの言うことなど、聞く耳持たないというわけです。
しかし石田は、断固として「最高責任者にこの旨至急報告されたい」と言い残した。
そして引き上げた。

その日の午前10時、石田は、政治部将校マーカロフ少佐の呼び出しを受けます
石田が団本部に入ってみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長がいた。
事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要もない。
かえって二人がいてくれた方が話し易い位のものだと考えた石田は、鶴賀に通訳を頼みます。

マーカロフ少佐は、元来、日本人を人間扱いしない総元締であるだけに傲岸不遜、
人を見下すことを得意とする男です。
この時も、ハナからいただけだかに、

「囚人の作業拒否は違法だ。
 如何なる理由があろうとも、
 囚人が作業に出ないとはけしからん。
 不服従として厳罰に処する」と喰ってかかった。

石田は、静かに答えます。

「日ソ間の国交回復が議せられている現在、また、ヴォロシーロフ議長が、
日本議員団訪ソの際、
言明したように、日本人は、当然、遠からず帰国を約束せられている集団であると
信じています。
この最も光明ある時期に、何故かかることを断行しなければならなかったかは、
貴官も先刻御承知のはずです。
特に貴官の病人狩り出しは甚だしい非人道行為です。
このような事態が続くとすれば、私たちの健康状態は・・・」と説明した。

しかし、マーカロフ少佐は、日本人をバカにして、まるで話を受けつけない。
石田の話の腰を折り、あげくの果に、
「よろしい。即刻作業に出ないとあれば昼食を支給することはできない」と会見を打ち切った。
石田は、団本部から戻ります。
すると数十名の若者が、営庭の片隅で盛んに大工仕事をしている。
何事かと近よってみると、

「ソ連兵が弾圧のため営内に進入してくるに違いないから、バリケードを作っているんだ」
という。
石田は、はっとします。
そうか。私はウカツだつた。みんな同胞の生命を守るため本当に死を覚悟しでいるんだ。
そして今、決死の抵抗を準備している。
そうだ。この決意こそが必要なのだ。
しかし、こういう手段をとってはいけない。
私たちは正義と人道の上に立っている。これで充分なのだ。

暴力を用いてはいけない。
暴力を用うれば、敵に攻撃の機会の口実を与えてしまう。
ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と同一であってはならない。
あくまで沈着冷静な、無抵抗の抵抗でなければならない。
石田は、若者たちにこのことを説いて、直ちにバリケードの撤去を命じます。

その日の正午前、石田が班長たちにマーカロフ少佐との会見の模様を報告していると、
炊事係がやってきます。
「今、政治部将校から許可あるまで、全員に昼食を支給することまかりならぬ、
と命令がありました」
ソ連側の圧力のはじまりです。
そしのこの圧力・・・弾圧は、最終的に3月11日、ソ連邦内務次官中将が、
自ら指揮する兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行った大武力弾圧にまで発展する。

作業拒否闘争が始まって間もなくのことです。
35歳以下の若者130名が、自発的に青年防衛隊なるものを結成した。
そして石田のもとに、その結成式をやるから出てくれと言ってきます。

石田が表に出ると、凍土の上に、シベリアの雪が静かに降る中で、若者たちが整列している。
そして青年たちの代表が凛(りん)とした声で、宣誓文を読みあげます。
整列した若者たちの瞳は澄み、顔にかかる雪にも気付かないかのようです。
敗戦によって心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿が一変し、
何者も恐れぬ気迫があたりを制している。
彼らの胸にあるのは、自らの意思で、人としての尊厳を取り戻すために、
友のために、同胞のために、正義の戦いに参加しているのだという誇りです。

「私たち青年130名は、日本民族の誇りに基づいて代表を中心に一致団結し、
闘争の最前線で活躍することを誓う!」
代表が読み上げた檄文は、

我々は石田代表と生死を共にする、
我々は老人を敬い病人を扶ける、
我々はすべての困難の陣頭に立つ、
我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、
と続きます。

石田三郎は、答辞として、こう答えた。

「運動の目的は、あくまでひとり残らず日本に帰国することです。
そのためには、暴力は絶対にいけません。
諸君の任務は、暴力に訴えることが生じないように監督してくれることです。
そして、私を拉致するために血を見るような事態に至ったときは、私ひとりで出て行きます。」

すると一人の青年が、石田の言葉をさえぎります。
「代表が奪われるよりは、私達青年は、銃弾の前に屍をさらす覚悟です」
このとき、集った130名の青年たちの目には、必死の覚悟が浮かび、頬に涙が伝っていた。
石田の耳にも、彼らのすすり泣く声が聞こえます。

全ての青年が泣いていた。
石田も泣いた。

これまで、如何なる拷問にも耐え、如何なる困難を前にしても泣いたことのない石田三郎が、
そのとき、青年の手を握り泣た。
みんながこのように、純粋な気持で涙を流すことは祖国を離れて以来初めてのことです。
外の力で動くのではなく、内なる力に衝き動かされ、その結果、
人間として一番大切な生命をかける。
そのことによって、奴隷としての自分を解放し、日本人としての誇りを仲間と共感した。

決死の覚悟を抱いた青年たちがどれだけ強いか。
そのことは、ソ連兵がいちばんよく知っています。
予想に反して長引いたハバロフスクの闘争事件で、
ソ連側が軽々しく武力弾圧に踏み切ることを控えさせるために、
その後、決死の青年隊の存在は大きなを持つことになった。

つづく