恩を仇で返した中国の品格 | 雑雑談談

恩を仇で返した中国の品格

反日デモでパナソニック工場破壊 松下翁の恩を仇で返した中国の品格
sankeibiz news:2012.9.22 07:15

嵐のような1週間だった。
日本政府による沖縄県・尖閣諸島の国有化に抗議し、中国全土に吹き荒れた反日デモ。
現地に進出する日本企業が標的となり、パナソニックの工場も設備などが壊され、
一時休業を余儀なくされた。

 中国では改革開放路線の黎明期、トウ小平氏の求めに応じ、
日本の製造業では戦後初めて中国進出を決めた同社創業者の松下幸之助氏は
「井戸を掘った人」とたたえられてきた。
その恩人の工場を襲った反日デモは、かつての最高実力者の顔に泥を塗ったことにもなる。

 歴史を知らない暴徒

 「歴史を知らない一部の方が被害をもたらしており、非常に残念だ」。
幸之助氏の孫で、パナソニック副会長の松下正幸氏は落胆の表情を浮かべた。

 中国と同社の歴史は、まだ松下電器産業だった昭和53年10月にさかのぼる。

 日中平和友好条約の批准書交換のため来日したトウ氏が大阪府茨木市の同社の
テレビ工場を見学したのが原点だ。
ときあたかも、中国が改革開放路線を宣言する2カ月前。
当時副首相のトウ小平氏はホスト役の幸之助氏にこう切り出した。

「あなたは“経営の神様”と呼ばれていますね。中国の近代化を手伝ってくれませんか」

 幸之助氏は「できる限りのお手伝いをします」と応じ、交流がスタート。
翌54年には幸之助氏が訪中してトウ氏と懇談し、北京駐在員事務所を開設した。
62年にはブラウン管製造の合弁会社を北京に設立し、
日本企業で戦後初の中国への工場進出となった。

 感謝を述べる胡主席

 中国が外資を誘致し、外国の資金と技術ノウハウを使って中国経済を成長へと導いた時代。
同社も次々と現地で合弁会社の設立を進めるなど経済成長の功労者と位置づけられ、
幸之助氏は「井戸を掘った人」とされてきた。
パナソニックと社名変更した後も中国だけは現地統括会社の中文(漢字表記)社名として
「松下電器(中国)有限公司」を使用しているのも
現地での認知度と好印象が浸透していたからだ。

 幸之助氏とトウ氏の最初の出会いから30年後の平成20年5月。
来日した胡錦濤国家主席が大阪府門真市の松下の本社を訪れた。

このとき胡主席は、出迎えた松下正治氏(当時名誉会長)に歩み寄ると、
「幸之助氏の“支持”は永遠に忘れることができない。
中国の発展に尽くしていだたき、ありがとうございます」と感謝の言葉を語った。
2代目社長の正治氏は幸之助氏とともにトウ氏を出迎えた1人。
胡氏の振る舞いは「井戸を掘った人を忘れない中国」をあらためて印象づけた。

 恩を仇で返す中国

 中国は今、トウ氏が主導した経済政策の結果、国内総生産(GDP)世界2位を実現した。
日中の立場は逆転しつつあり、中国側には「もう日本に配慮しなくてもいい」
という態度が目立つ。

 反日デモでは見境なく日本企業を襲い、
襲撃された同社の工場では「松下は出ていけ」と叫ばれたという。
大国になり、経済では手のひらを返すように自国企業を優先する「愛国主義」を強める。
それだけでなく、かつての恩を仇で返した中国の品格は国際社会にどう写っているのだろうか。
(松岡達郎)