日本古代史5 神社とキリスト教 | 雑雑談談

日本古代史5 神社とキリスト教




童謡、とおりゃんせ。


みなさん子供の頃に1度や2度や歌った事がある童謡だと思います。


このとおりゃんせには、神道の奥義に関する問答が暗示されている事は


ご存知ですか?


とおりゃんせ、とおりゃんせ


ここは、どこの細道じゃ


天神様の細道じゃ


そおっと通してくだしゃんせ


御用のない者、とおしゃせぬ


この子の7つのお祝いに、お札を納めに参ります


行きはよいよい


帰りは怖い


怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ


私は、子供の頃この歌はなんとも薄気味悪い歌で、鶴と亀がすべったと同じ様に、


少々怖いイメージがありましたがみなさんはどうですか?


この歌の通りに、浮かんでくる映像はどうでしょうか?


まず、子供のいる親が1人で神社にやって来る。


753のお祝いでしょう、お札を天神様を祀る神社に納めに来る。


しかし、神社の参道はとても狭く、又用のない者は通してくれないときている。


通さないと言っているのだから、門番がいるのでしょう。


そして、用件を聞いた門番は一応通してはくれるが、


行くのは許すが帰れるかどうかは保障出来ないと言う。


もしかすると、生きては帰れないかもしれない。


いまでこそ、子供たちが道端や神社の境内でとおりゃんせ遊びを


する光景こそ見られなくなってしまいましたが、


この遊戯は2人1組になった子供が手をつなぎ、


その手を門の様に上に掲げて、


他の子供たちはその門の下を次々に通り抜け歌を歌い終わったと同時に


子供の手が下ろされて、門は閉じられると言う遊びです。


両腕にはまったら最後、その子は鬼になってしまう・・・・


鬼になると言う事は、すなわちこの世の者では無くなると言う事です。


この鬼ですが、実は死体の象形文字です。


鬼は、陰に通じています。


陰府へ至る死者の事です。


つまり、とおりゃんせは決死の覚悟で神社に近づこうとする行為


そのものを投影しているのです。


一般に、このとおりゃんせに出てくる天神様はご存知の通り


菅原道真を天神様と称しています。


しかし、菅原道真を祀っている天満宮は行きもよいよい、


帰りもよいよいで帰ってこれます。


用がなくても行けます。


と言う事は、とおりゃんせは普通に参拝する事を意味しているのではないのです。


菅原道真と言えば、匂い起こせよ梅の花、


主なしとて春(ハル)を忘るなで有名です(笑)


そして、天神様と言えば学問の神。


多くの参拝者は受験者です。


つまり、受験合格祈願に来るわけです。


この背景を見ると、とおりゃんせも又なんらかの受験だと言う事を暗示しています。


何かの叡智や財宝や資格を得る試験と言うものがあり、その志のある者が挑む。


試すほうは、挑戦者を拒む事はない。


つまり、行きはよいよいなのです。


しかし、試験に不合格になってしまうと、ただじゃ済まない・・・・


その場で殺されるか、罰を受けるか、五体満足では帰って来れない・・・


帰りは怖いのです。


そして、試験の厳しさが細道のごとく狭き門と言うわけです。


さて、では一体この試験とは?何の試験なのでしょうか??


手がかりは、どうやら「この子の7つのお祝い」にあるようですが、


「この子の7つのお祝い」で頭に浮かぶ事はなんでしょうか?


その手掛かりは、「この子の7つのお祝い」と言う所です。


これは、753の事です。


753と言えば、子供の成長を願う祝い事。


男の子は数え年で3歳と5歳、女の子は3歳と7歳です。


つまり、753に関わる試験を指しています。


更に言えば、753に秘められた叡智を解き明かす試験なのです。


さて、それはどう言うことでしょう。


皆さんは、魔方陣をご存知ですか


神道における数字とは、基本的に一桁です。


1から9までしかありません。


10になれば、数は一巡して1に戻るのです。


占い等では、2桁の数字で二桁になってしまう数字を、


各々の数字を足して一桁にすることで分かると思います。


そして、最終的に9で割った余りの数を出す事を目的としています。


123なら1+2+3=6とか、666なら6+6+6+=18で更に1+8=9と言った具合です。


魔方陣とは、一桁の数字1から9までを3行3列の升目に入れて、


更に縦横斜めの3つの数字を足しても、みな同じ数字になるようにした


ものです。


3行3列の3次魔方陣では、四隅の数字は必ず偶数、残りの数字は奇数になります。


そして、中心は必ず5。


上下又は左右の列は、7・5・3となります


つまり、753の暗号です。


更に、3次魔方陣の各行列斜めの任意の数字の合計は、15になります。


753なら、7+5+3=15です。


753のお祝いが11月15日に理由はここにあります。


15は1+5=6になります。


6は7に1足りません。


神道において、7は完全数。


神様の数字です。


なので、それに満たない6は人間の数字を意味しています。


753の合計数が15で人間の数字が6で1+5と同数と言う事には、


すなわちこの世、人間世界を象徴している事になるのです。


6が人間数で、とおりゃんせでは「この子の7つのお祝い」と


7を選んでいると言う事は、試験は人間ではなく神に関わる事を


暗示しているのです。


どうですか?お分かりになるでしょうか?


これは、753に関する序文にしか過ぎません。


極端な話、753が分かれば宇宙の仕組みが分かると言っても過言ではないのです。


神道の根幹には、753があるのです。


まとめてみますと、とおりゃんせとは神道奥義を問答する試験を暗示した歌なのです。


とすると、このとおりゃんせで歌われている天神様とは?


菅原道真ではないと言う事です。


ただ、何故天神様になったのかと言えば、


菅原道真の祟り説の始まりが落雷によるものだったからです。


落雷をもたらす神は、雷神。


雷神は、天にいる。


つまり、天にいる神様だから天神様となっただけに過ぎないのです。


では、本当の天神様とは一体何を指しているのでしょうか?


日本神道には、キリスト教の様に聖書はありませんが、


聖書にあたる聖典があります。


それが、古事記と日本書紀です。


これらによれば、この世の始まりは混沌(カオス)であり、


生命体はまったくいなかったとされています。


それが、混沌からひとりでに神が出現するのです。



その最初の神様のお名前を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と言います。


続いて、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、


神産霊神(かみむすびのかみ)のお二方(ふたかた)が出現しますが、


これもまた一人で出現します。


そして、この3人の神様を造化三神(ぞうけさんしん)と呼んでいるのです。


宇宙の根源的な絶対神と思われたらいいと思います。


更に、造化三神が姿を隠すと、次に二人の神様が出現します。


宇摩志阿斯か備比古遅神(うましあしかびこじのかみ)と


天常立神(あめとこたちのかみ)です。


という事は、ここまで造化三神と合わせて5人になったわけです。


つまり、753の3と5が登場しています。


そして、この2人の神様も姿を消すと、またまた二人の神様が出現します。


但し、今までとは違い今度は一人一人別々に現れます。


一人は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)と、豊雲野神(とよくもぬのかみ)です。


そして、この二人の神々も姿を消すと、


今度は二人で一人の神様が次々と姿を現します。


宇比地邇神(うひじにのかみ)と妹須比地邇神(いもすひじにのかみ)


角ぐい神(つのぐいのかみ)と妹活ぐい神(いもいくぐいのかみ)


意富斗能地神(おほとのじのかみ)と妹大斗乃弁神(いもおほとのべのかみ)


於母陀流神(おもだるのかみ)と妹阿夜か志古泥神(いもあやかしこねのかみ)


伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と妹伊邪那美神(いざなみのかみ)です。


ここで古事記は国常立神から伊邪那岐神・伊邪那美神までを神世七代と記しています。


もう、気がつかれたと思いますが、ここで7が出てきます。


つまり、753の数字が全て出てくると言うわけです。


神道では、これらの神々を八百万(やおろず)の神とは聖別して、


「天神」と称しているのです。


つまり、とおりゃんせは日本神話の初めに存在した神々を指しているのです。


天神様とは、造化三神から神世七代に至る天神と言う事です。


それを踏まえてとおりゃんせを訳せば以下の様になります。



通して下さい、通して下さい。


ここは何を試す所ですか?


聖なる神々に関する神道の叡智を試す厳しい所です。


志と覚悟の出来ていない者は、受け入れるわけにはいかない。


753における7の意味を知っていて、その徴(しるし)をお見せします。


そうであるなら入ることを許そう。


但し、五体満足で帰れるかは保障しない。


勿論、覚悟は出来ています。


ですから通して下さい、通して下さい。


つまり、入り口には門番がいるわけです。


神道奥義に触れる者を通すか否かは、全て門番次第。


神社の門は鳥居です。


鳥居とは、鳥が居ると書くわけですから、高いところから門に入って来る人間を


見つめる門番の役目を持った鳥がいるわけです。


鳥居にいる鳥の姿はありませんが、神道奥義に触れようとした途端に


姿を現すというわけです。


その目に見えない鳥こそが、とおりゃんせを全国に広めたのです。


その鳥の名は?


八咫烏(やたがらす)です。


太陽の中に描かれた三足烏。高句麗の壁画。左は竜、右は鳳凰。


しかし、この八咫烏は鳥ではないのです。


八咫烏を説明するには、前もって書かなければならない事があります。



それは、神社における裏表の事です。


神道にも裏表があるのと同様に、神社にも裏表があります。


日本の神社の総本山はどこですか?と聞かれたらみなさんは


どこの神社を上げるでしょうか?


恐らくは、伊勢神宮ではないでしょうか?確かに、伊勢神宮は神社の総本山です。


しかし、これはあくまで表向き。つまりは、表神道の頂点なのです。


では、裏神道の頂点とは一体どこの神社でしょうか?


裏神道と言う言い方もそうなのですが、言葉を変えて言えば裏神道の呪術、


カッバーラの使い手の拠点はどこでしょう?


と言った方がいいかもしれません。


カッバーラ・迦波羅・漢波羅の使い手。この使い手は、みな賀茂氏なのです。


つまり、賀茂氏が崇拝する神社の中枢こそが裏神道における最高権威なのです。


賀茂氏が崇拝する神社は?


賀茂神社です。


この賀茂神社ですが、伊勢神宮と同じ様に内宮と外宮にあたるところがあります。


それが下鴨神社と上賀茂神社なのです。


この下上賀茂神社は、まさに裏神道の重要拠点であると同時に、


日本の神社における最高権威、権力を誇っているのです。


後々お分かりになる事を期待しますが、


この下鴨神社の神事に『 御蔭祭 』と言う神事があります。


これは、毎年5月12日に 下鴨神社 で執り行われる 、我が国最古の神幸祭


( しんこうさい : 神様を遷す祭り ) であり、


古代の祭祀の様子を現代に継承する貴重な神事です。


高野川上流の御蔭山にある 御蔭神社 で 荒御霊 ( あらみたま : 新しい神霊 )


を得る神事を執り行い、


祭祀にたずさわる神官の行列に守られながら下鴨神社まで荒御霊が届けられます。


水を司る賀茂の神の力 は、毎年、荒御霊を得ることで保たれるとされ、


今年も新たな神霊を迎える季節となりました。


(何故水なんでしょうね)


簡略・御蔭祭(みかげまつり)


5月12日・御蔭神社から下鴨神社へ神霊を迎える神事 )


御蔭神社


この、下上賀茂神社は、伊勢神宮と表裏一体でありながら


実は全国の神社の総元締めなのです。


そして、裏神道の漢波羅に秘密組織が存在する事。


この2つの事実は、神社関係者であっても知っている人はほとんどいません・・


この秘密組織は陰陽道は当然の事、迦波羅の使い手なのです。


そして、私達日本人が自覚することなく、壮大な国仕掛けをして来ているのです。


その目的は?


神道の護持です。


そして、この裏神道の漢波羅秘密組織の名が、八咫烏なのです。



八咫烏の足は3本あります。


この3本足は、何を意味しているのか?


もうお分かりですね。(父と子と聖霊)


そして、この八咫烏は8です。


更に、八咫烏は秘密組織だと申し上げました。


秘密組織という事は、陰ですか?陽ですか?


日向ですか?日陰ですか?


さてさて、御蔭祭りが行われるのはいつでした?


もう、みなさんは漢波羅の世界にすっかり入り込みましたね。



賀茂氏が何故にカッバーラ・迦波羅・漢波羅の使い手なのか?


を書いてゆきますが、その前に神社について豆知識を書きますね。


みなさんは、神社と教会の違いを知っていますか?


神社は日本人が神をお祀(まつ)りし、お詣りするための施設、


従って神の座(いま)し所であり、神と人のための祭りをする場所でもあります。


それに対して、キリスト教では神が宇宙・我々の生きるこの世界を無から


創造されたと信じられているから、神はこの世界の中に居られるのでは無く、


世界外の存在です。


つまり、神社と教会には大きな差(勘違い)があります。


それは、教会は神に祈りを捧げる聖域であり、


神の居られる場所ではないと言う事です


これって結構知らない人が多いのです。


世界広しと言えども、神様が鎮座するばしょは何を隠そう神社だけと


言っても過言ではないのです。


そして、みなさんは神社に行かれたら何をしますか?


参拝ですよね?


参拝・三拝。


もうお分かりですよね?


御父と御子と聖霊の御名においてです。


その三神に拝むわけです。


この参拝と言う言葉と行為も神社特有のものです。


つまり、私たちが参拝している神社は日本神道の神々であり、


キリスト教の神々でもあると言う事です。


と言う事は・・・私達は、キリスト教徒なのです。


正確には、原始キリスト教となるのです。



つづく