日本古代史2
「騎馬民族征服王朝説」によりますと、
記紀の編纂者は、万世一系の天皇のかたちを整えるため
神武天皇にはじまって、応神天皇まで15代の天皇が続いたという
ウソの記述をして真の歴史を隠したようです。
江上氏の「騎馬民族征服王朝説」を検証するには、
当時の朝鮮半島の状況についてもっと知る必要があります。
朝鮮半島から海をわたってどういう民族が日本を襲ったのか
特定しなければならないからです。
紀元3~4世紀は、中国大陸の混乱を受けて朝鮮半島情勢も
不安定になっていたのです。
北方の騎馬民族「高句麗」が南下して百済、新羅、伽耶に
脅威を与えるようになり百済の王の辰王は伽耶にきていたのです。
伽耶は「任那」(みまな)と呼ばれ、日本とは深いかかわりのある国なのです。
しかし、北方の騎馬民族の脅威が日増しに強くなるに及んで、
辰王は進路をさらに南に向けて、倭国を目指すことを決めます。
辰王は、以前から朝鮮半島と交流のあった北九州の諸国と緊密な連絡をとり、
朝鮮半島の南端から対馬、壱岐へと進み、
九州に上陸し、瞬く間に騎馬民族の機動力を発揮して
九州全土を平定してしまいます。
辰王は、九州の倭国と連合国家というかたちで平定し、
5世紀になって東を目指して進軍、畿内に攻め入り、
強大な王権を築くのです。
これが大和朝廷であるという説が江上氏のいう
「騎馬民族征服王朝説」なのです。
実は「騎馬民族征服王朝説」の発表によって、
神武天皇からの15代に大きなウソがあることがはっきりしてきたのです。
ところで辰王とは何者なのでしょうか。
最初に答えを書いてしまいますが、実は辰王は第11代崇神天皇なのです。
更に、この崇神天皇は分身し、
みなさんもよくご存知の天皇にさえなっています。
辰王が崇神天皇と同一人物・・・さて、どうしてそう断定できるのでしょうか。
そのカギは「任那(みまな)」にあります。
任那とは朝鮮半島の南端の伽耶(かや)のことです。
古事記によれば、崇神天皇には「所知初国之御真木天皇」という
別名があります。
この中の「御真木/ミマキ」という部分に注目して下さい。
そして、日本書紀では字が違うものの、やはり「御間城」とあり、
これも「ミマキ」と読むことが出来ます。
「任那」は、ミマとナに分けることが出来ます。
朝鮮語でミマとは、大王を表し、ナは国を表します。
つまり、ミマナとは、大王の国の意味になります。
これこそ任那が騎馬民族の大王、辰王の国であると言う背景です。
御真木(ミマキ)も同様です。
つまり、辰王は大陸の任那と自分の名前を関連づけたわけです。
アカデミズムの世界でさえ、天皇の代において
2代から9代に至る天皇について、欠史8代としている事をご存知ですか。
更に11代から14代の天皇さえ架空の天皇です。
さて、古事記を見てみましょう。
古事記は三巻からなり、上巻は「序」と神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、
下巻は仁徳天皇から推古天皇について書かれています。
中・下巻では天皇一代ごとに系譜・伝承が記され、
仁賢天皇以降には帝紀(天皇家の系譜)のみを記録しています。
そして、中巻は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。
ここで、おかしいことは初代神武天皇から
15代天皇まで扱われているのにも関わらず、
天皇の代において欠史があると言う事です。
途中が抜けていると言う事は普通であればありえないのです。
子供は分かっているのに、おじいちゃんはわかっているのに、
お父さんが分からないなんてむちゃくちゃです(笑)
しかも、記紀では日本の初代天皇は応神天皇です。
更に記紀では、神武天皇=崇神天皇=応神天皇と言う
3人の天皇を巧妙に使い分けています。
象徴としての神武天皇、九州を平定した崇神天皇、畿内に攻め上り、
大和朝廷を開いた応神天皇というように、
本来1人であるはずの天皇をこのように使いわけているのです。
記紀において、日本の初代天皇は応神天皇です。
しかし、この応神天皇の登場は古事記の干支崩年に従えば、
4世紀後半となります。
つまり、4世紀の謎の年にあたります。
そして、先にも書きましたが古事記によれば、
崇神天皇には所知初国之御真木天皇になっています。
だんだん頭が混乱して来ましたか?
つまり、何故こんなにも分けの分からない事になってしまうのか?
それは、古代史の謎の4世紀と言われる様に、
途中で古事記も記紀も壮大な編纂がなされたからです。
この4世紀に日本に渡って来た辰王が編纂させたのです。
つまり、神武天皇、崇神天皇は応神天皇の投影に過ぎないのです。
4世紀に、朝鮮半島から日本列島に侵攻してきた辰王が、応神天皇です。
応神天皇の率いる騎馬民族軍団は圧倒的な軍事力を持っていたのです。
彼らにとって当時の倭国などは、取るに足らない存在であったと思います。
したがって先住民すべてを虐殺して征服することも可能だったはずです。
しかし、応神天皇はそういう方法は採らなかったのです。
先住民を懐柔し、自らが倭国の王家に婿入りすることによって
倭国との連合をスムーズに果たし、そのうえで君臨したのです。
このようにして、九州王朝が確立するのを待って、
その拠点を一気に畿内に移したのです。
それでは応神天皇の婿入りした王家とは、具体的にはどの王家を指すのでしょうか。
つづく