トリエンナーレ。 | 酒菜・和食 下北沢「金兵」(キンペイ)

トリエンナーレ。

近頃、ワタクシの故郷愛知県で起きております「あいちトリエンナーレ」での騒動は既にご存知の方も多いと思います。
国内最大級の芸術展の企画の一部に出品された作品が物議を醸しその企画が中止に追い込まれたという話。
概要としては「表現の不自由展」と題された企画に従軍慰安婦像が展示され、昨今の日刊関係のこじれもあってでしょうか、そのことに対して会場へのテロ予告なども発生し、他方では名古屋市長や内閣官房長官が公開に圧力を掛けるような発言をしたりいたしまして、結果としてその企画が中止になったということであります。
これについて巷では「従軍慰安婦像は政治的メッセージの表現であり芸術ではない」というような言い方で公開中止措置を正当化しようとする意見があったりしますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

政治的メッセージがあるものは芸術ではない、などということはありませんし、そのことの証拠としては有名なピカソのゲルニカ等が挙げられるでしょう。ですから政治的かどうかは問題ではなく、この作品が芸術として成立しているかどうかという話になると思います。
では芸術とは何か、という話になるわけですが、これはもう人それぞれの捉え方によるとしか言いようがないのかもしれません。しかし、何らかのテーマがある場合、ある表現がそのテーマに沿って成立しているかどうかというのは考えることが出来るように思います。

で、今回の件。
慰安婦像そのものは確かに政治的な文脈から発生したものではありますが、それを展示することで賛否の議論が起こり鑑賞者自身がその議論の主体となることで鑑賞者自身が表現に対して規制をする側に立ち得るということを提示したという意味では、この作品は「表現の不自由」という企画テーマに沿ったメタ表現として十分に成功しているとワタクシなどは思うのであります。
そして、実際に社会がこれを中止に追い込んでしまった、表現規制してしまったという事実がこの作品を完成させてしまったとすら言えるんじゃないか、と。
この作品は「慰安婦像そのものを規制に直面する不自由な表現として提示した作品」ではなく「我々や我々の社会が表現を規制する主体となり得るということを、鑑賞者自身を主体として取り入れ鑑賞者に突き付ける作品」として理解出来るのではないでしょうか。
そう考えた時、慰安婦像というのは非常に効果的な道具立てであったと思いますし、現にこれだけの議論を引き起こし実際に表現規制を発動させてしまったという事実が、この作品が見事に成立していることの証明になる、と言えるのじゃないかと思いました。


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