12月8日は明治の小説家・徳富蘆花の生誕日。
(明治元年~昭和2年)
徳富蘆花は熊本県の水俣の生まれ。
徳富家は代々、細川家の代官を務める家柄。
1870年に父が熊本藩庁に出仕したことで
しだいに近代化の雰囲気に影響されていく。
兄・蘇峰の影響で政治小説などに親しむように
なる。
熊本英学校で教鞭をとっていたが、上京し、兄が
設立した民友社に入社し、校正や翻訳に従事。
『不如帰』(ほととぎす)で作家として自立した。
ほかに
『灰燼』
『自然と人生』(1900年)
『思出の記』(1900年 - 1901年)
『黒潮』(1902年)
『寄生木(やどりぎ)』
『みみずのたはこと』(1913年)
『黒い目と茶色の目』(1914年)
『蘆花日記』 全7巻、筑摩書房-大正初期の日記
がある。
・・・・・わたし、明治時代の小説は
漱石以外は読んでいないわ。
『不如帰』(ほととぎす)って題名だけは
聞いているけど・・・・・・
どういうお話?
~~『不如帰』はね、
蘆花が妻と逗子の柳屋という部屋を借りて
いたころ、病後の保養のために訪れた
子ども連れの女性に、借りていた八畳二間
のうちの一間を用立てることにした。
その女性が話した実話をもとに書いたんだ。
・・・・・へー。
実話をもとにね。
~~1898年、「国民新聞」に掲載された。
横恋慕する千々岩、気むずかしい姑 に苦しみ
結婚生活を送っていた。
しかし武男が日清戦争 へ出陣してしまった間に、
浪子の結核 を理由に離婚を強いられ、夫をしたい
つつ死んでゆく。
浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!
生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」、
「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれは
しませんよ」
は日本近代文学を代表する名セリフとなった。
家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に
対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣
に合致し、広く読者を得た。
作中人物にはモデルが存在する。
しかしベストセラーとなったが故に、当時小説が
そのまま真実と信じた民衆によって、モデルと
なった人物に事実無根の風評被害があった。
・・・・・モデルがいたんだ。
そのモデルってどなたなの?
~~ それはね、当時の陸軍大将・侯爵の
大山巌の娘・信子。
彼女は結核のため20歳で早世した。
もう一人は大山の妻・あの捨松だ。
小説の中で主人公の浪子は結核のため夫との
幸せな結婚生活を姑によって引き裂かれ、実家に
戻されると今度は薄情な継母に疎まれ、
父が建ててくれた離れで寂しくはかない生涯を
終える。
ところがこの小説に描かれた冷淡な継母が捨松
の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く
者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を
捨松に送った。
この風評に捨松は晩年まで悩んでいた。
(注)来歴等に関する出典はWikipedia他