今日12/25(土)は京都・北野天満宮で天神市ですね〜クリスマスツリークリスマスベル年内最後の終い天神。毎月25日、菅原道真の命日には天神市が開かれるそうです。

 

 近くの粟餅所「澤屋」さんは天神市の翌日はお休みですヨ〜と情報共有です。昨年ちょうど26日に寄ったらお休みで、翌日粟餅のために再度訪れました。{emoji:笑}あまりの美味しさに写真もありません〜。お団子左矢印ゼンゼンコンナカンジデハナイデス)目の前で丸めてくださり、柔らかくて甘くて美味しかったなぁ〜一瞬で消えて無くなりました。よだれ

 

クリスマスツリージンジャーブレッドマンサンタトナカイクリスマスツリー

大塔宮護良親王は北野天満宮とも縁深いのではないかなあと思ったきっかけのエピソードがあります。以下の3点です。

 

「北野天神の御守り」

右矢印 熊野での大大大ピンチを救われた太平記のエピソードがあります。

 

赤坂城の戦いに敗れ熊野落ちした大塔宮が32名の供回りと奥吉野の十津川へ向かう途中、鎌倉方の軍勢500余騎に襲われました。あわやのところで竹原八郎の甥の野長瀬六郎・七郎の兄弟が、横から矢を入れて危機を救ったとあります。野長瀬兄弟は前日「老松」と名乗る少年に「大塔宮をお救いせよ」と告げられたと言います。大塔宮が身につけていた北野天神の御守りが少し口が開いており、不思議なことに中にある御神体に土汚れがついていたといいます。

 

以下、太平記を現代語訳を並べて載せてくださっているブログ記事から一部お借りさせていただきます。

 

“その後野長瀬兄弟は、兜を脱ぎ弓を脇に差し挟み遥かに畏りました。大塔宮は御前近くに呼んで(中略)「思いのほかの助けに天運はなおも頼みあるように思われる。そもそも我らがここにいることをどのように知り、この戦場に急ぎ来て、逆徒の大軍を追い払うことができたのか」と訊ねると、野長瀬が畏まり申すには、「昨日の昼ごろに、年十四五ばかりの童が、名を老松と名乗って、『大塔宮が明日十津川に向かわれて、小原(現奈良県吉野郡十津川村小原)を通られますが、必ずや道中で災難に遭われましょう、心を寄せる人は急ぎお迎えに参りなさい』と触れ回ったので、宮のお使いと思い参ったのでございます」と申しました。大塔宮(護良親王)はこれを聞いて、ただ事ではないと思い、年来身から離さなかった肌のお守りを見れば、お守りの口が少し開いていたので、ますます不思議に思って、すぐにお守りを開けて見ると、北野天神のご神体を金銅で鋳た眷属([神の使者])の、老松明神のご神体が、遍身([全身])より汗をかいて、足には土がついているのが不思議でした。「さては佳運([幸運])なことに神慮([神のおぼしめし])により、逆徒を退治することができたに違いない」“

 

「雛鶴神社の御神体」

右矢印雛鶴姫が大事にしていた天神像と伝わる

こちらは大塔宮か雛鶴姫どちらかの念持仏だったのかなと〜想像します。

「雛鶴神社の御神体は護良親王の守護神であり、姫の守護神でもある天神像であるとのこと」(護良親王の伝説 山地悠一郎 著より引用)

鎌倉宮のすぐ近くにも鎌倉幕府の鬼門を守る荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)があります。日本三古天神の一つで、太宰府天満宮、北野天満宮と並びます。

 

「北野天満宮と比叡山延暦寺が共同で御祈祷」

右矢印大塔宮が天台座主をお勤めになった延暦寺と繋がり、交流あった

 

昨年のニュースで、”応仁の乱以来550年振りに神仏習合の祈り/京都・北野天満宮に延暦寺の僧侶訪れ「北野御霊会」”が執り行われたことを知りました。以下京都新聞の記事をお借りします。

 

 

上差し平安時代に始まったと書かれていましたねメモしかも延暦寺の管轄下にあったのですね、今読んで知りましたなるほどそれで乙女のトキメキ

 

北野天満宮も、比叡山延暦寺とともに「護良親王のゆかりの地巡り」リスト入りですねルンルン絵馬カブト

 

 

(2020年12月末牛

 

(梅も咲き始めていました)