大塔宮護良親王は比叡山延暦寺に入り
尊雲法親王(そんうんほっしんのう)
と呼ばれました。
法親王とは出家した皇子のことです。
比叡山の有力門跡(皇子の住む寺)である
梶井(梨本)門跡に住み、
門主となり、やがて比叡山のトップである第116代の天台座主となります。
(「逃げ上手の若君」松井優征 週刊少年ジャンプより)
梶井門跡とは天台座主を輩出する三門跡(他に青蓮院門跡、妙法院門跡)の一つです。
護良親王が入られた当時の梶井門跡には
承久の乱の敗者の子孫が多く、
反幕府の気風が強かったと考えられています。
弟の宗良親王は妙法院門跡に入られています。
梶井門跡にいつ入られたのか
→依然としてわからない。
親源座主(北畠雅家息)から受法灌頂を受けた(森茂暁説)としたら1323年となるそうです。(護良15歳頃)
どこの房舎に住われたのか
→手堅い実証研究あり
法勝寺辺の梶井門跡。
法勝寺とはもともと白河天皇の御願寺。
四方が1700mにもわたる広大な寺域を持ち、金堂、阿弥陀堂、五大堂などの大伽羅が並び、九重の塔がそびえ立っていた。
この大塔のほとりに梶井門跡の子房である「大塔(おおとう)」が存在しており、護良親王はこちらに入室したそうです。
伝統ある子房「大塔」の開祖が後鳥羽上皇の孫である澄覚法親王という皇族で、護良に与えた精神的影響は大きかったであろう。
ということです。
参考文献
「護良親王」 新井孝重 2016年9月
「南北朝武将列伝 南朝編」 亀田俊和、生駒孝臣 2021年3月
「征夷大将軍・護良親王」 亀田俊和 2017年4月
参考文献の3冊ともに護良親王への承久の乱の影響があったと触れられていましたネ
歴史を知らなかったわたしでも、
ん似てる
と考えましたが
それはたまたま近辺に似た歴史を語る遺蹟があっただけで、
そんな跡を残す富士五湖地方って…
面白いです~~~
藤原光親卿の色々@山中湖村
大塔宮護良親王遺蹟や古文書@富士吉田市、都留市