

大棚中川杉山神社は延喜式の神名帳に記載されている杉山神社の有力な論社である。横浜市を中心に数多く存在する杉山神社の本宮が、大棚中川神社ではないか、というのである。
しかし、杉山神社の記録は続日本紀(838年)など古い書物にしか記録されておらず、記事もごくわずかであるため、本当の式社が今もってどの神社なのかわかっていない。杉山神社は神奈川県横浜市、川崎市の鶴見川とその支流沿いに多く点在する。江戸時代には都筑郡、橘樹郡、久良岐郡、多摩郡に72社もあったらしい。ただそのほとんどが町田を除く神奈川県側に集中しており、多摩川を超えないことが特徴である。いずれも大きな神社ではないが、神社ごとのヒエラルキーや横の連携はほとんどないようにおもわれる。そのほとんどが独立した由緒に基づく村社や郷社として大切に扱われた。まるでとある飲食店が考案した料理のメニューが、料理の名前はそのまま模倣されながらそれぞれ独自のレシピで周辺の店で看板メニューとして出され、いつのまにやら地域の名物料理として広がったかのようである。そしていま現在も44社が宗教法人として横浜市内を中心に存在している。
杉山神社はオリジナルの祭神が何かもわかっていないが、いずれも川沿いの高台に鎮座していることから水難除けと豊作を祈願するの神社といわれている。鶴見川水系は川が細く蛇行しているため、大雨にあうと水害になることが多かった。そして周辺の山々や谷(やと)には杉の木も多かったのだろうとおもわれる。とはいえ、杉山神社という同じ名前を有する神社が、特定地域の多くの村々で祀られていたのは、やはり特定の豪族が影響力をもっていたか、なんらかの地域交流が鶴見川を介して行われていたかのいずれかだろうとおもわれる。
どこが真の式社なのか、という論争は江戸時代からさかんに行われていたらしい。杉山神社にかぎったことでなく、古い神社はだいたい経緯や記録が不明確であるため、諸説が飛び交い、その結果、複数の論社候補がしばしば存在する。明治以降に強引に論社を比定したがため、大騒動に発展した例もある。村の鎮守は、ある意味特別な歴史や特産などを持たない全国の村民にとって唯一のアイデンティティといっても過言でなく、いつしか平和な時代の地方の知識層の興味と関心の的となった。
杉山神社も江戸時代になって、いくつかの候補があらわれるが、本格的な議論発展のきっかけは、新編武蔵風土記稿(1804年から1829年にかけて編纂)であろう。ここで茅ヶ崎社が論社としてほぼ比定された一方、西八朔社も幕府から御朱印を受けたことや吉田社も論社候補のひとつであることが記された。しかし大棚社は文化十三年(1816年)に昌平黌地理局調査員の実地調査を受けたにもかかわらず、論社に関しての記述は見送られた。
おそらくそのことで大棚社関係者の心に火がついた。その主役は栗原恵吉という学問好きの大棚村民とその祖父である。恵吉は農作業のかたわら暇を見つけては中原街道を上って足繁く江戸に赴き、林家の塾に通ったらしい。その祖父の六郎左衛門は文化の当時、名主のひとりとして調査員訪問に直接応対した際、家伝の水帳を提出し、安土桃山時代には同社が祭田を有していた記録を指し示そうとしたが、なぜかまわりの名主たちに止められ、仕方なく提出を断念したという。
天保五年(1834年)、別当寺龍福寺の住職である長伝が神祇官白川伯王から杉山神社の扁額と式社である事の証書を得た。そのときの依願書に恵吉の祖父及び(もしくは)父親とおもわれる六郎左衛門の名前も産子惣代として名を連ねていることから、若き日の恵吉自身も含めて栗原一族による本件への関与は少なくなかったと想像される。彼らは、並み居る強豪を出し抜いて、日本の神社のオーソリティから正式に式社であるとの認定を受けることに成功した。
この一挙で長年の式社論争に終止符が打たれたとおもわれた。しかし、そうはならなかった。最大の痛手は、弘化二年(1845年)に所伝の神璽を紛失したことである。別棟の住職が転居した時に持ち去ったともいわれている。また安土桃山時代に祭田を領した証拠となる土地台帳(水帳)もボロボロになっていた。
……このままではすべての紙の記録はいつかなくなり、長伝や祖父の労苦も忘却されてしまうかもしれない。しかし石碑なら盗まれることも、破れることもなく、後世に正しく歴史を伝承できる。村人の誇りと、団結を守り抜くためには、なにがなんでも石碑を建てなければならない、というのが恵吉の使命感だったようにおもわれてならない。そこで栗原恵吉は、これまでの顛末を石に刻み、建碑することにした。嘉永三年(1850年)のことである。
さらに当代一流の学者の筆により記録することで記録に重みをつけることにした。その標的となったのが、林家の塾頭河田興(迪斎)である。
河田迪斎(1806-1859)は昌平黌総長である佐藤一斎の女婿にあたり、碑文を書きあげたまさにそのころに林家塾頭としてペリー使節団との記録や日米和親条約の起草にあたった当代の高名な儒学者である。また、今に伝わる河田文庫は、佐藤一斎などの漢書や書画をまとめた幕末の膨大な資料集だが、もともと彼の私的な蔵書、著述を土台としている。
学問の師であるその彼に恵吉は碑文の作成を依頼した。無論、案文は恵吉が書いた。それから二年間かけて計七度書き直しがされたという。しかしなかなか河田迪斎からゴーサインがでなかった。ひとつにはペリーの来航で、てんてこまいの忙しさに巻き込まれたため、検証の時間を取れなかったことがある。もう一つは、本当に石碑ができるか、迪斎自身、最後まで疑念をぬぐい切れなかったのでないかとおもわれる。本件引き受けの条件として、恵吉たち村民は、計画的に基金を蓄え、五年間で必ず石碑を建てると、約束させられた。自分が歴史の証人として後世に記録を残すからにはそれ相応の覚悟を弟子の恵吉にも課したものとおもわれる。嘉永三年から四年の歳月をかけて恵吉によってまとめられた「大棚根元考糺録」によれば、迪斎の草案は一旦嘉永五年(1852年)に完成したが、結果的に翌年のペリー来航による騒動のため、最終原稿を恵吉らが受領したのは翌々年の安政元年(1854年)だったという。ある意味、その厳しさのおかげで、恵吉は初志を貫徹し、その二年後の安政三年(1856年)、自ら願主となって写真の杉山神祠之碑をようやく建てるのである。
恵吉らの快挙にはその首尾良さゆえに否定的な意見が多いのも事実である。たとえば、白川神祇伯から扁額と式社であることの認証を受け取ったのは、白川神祇伯雅寿王の退任一ヶ月前というドタバタの最中であり、そもそも神璽といっても本物と言い切れるほどの十分な調査がなされたのかとか、河田迪斎の文章にしても漢字の間違いや記録の誤りが散見され、ペリー騒動の混乱にかまけて本当に自分自身で検証したのか疑わしいとの指摘がある。たしかにもっともだとおもう。それにしても、どういうツテや論拠を駆使したのかわからないが、これといった政治力や経済力もなかった片田舎の村民たちが一致団結して、雲の上の存在とでもいうべき、時の権威である神祇伯と林家塾頭をして、結果的におらが村の鎮守を公式に延喜式の式社であると承認せしめた、という点において十分賞賛に値するとはいえないだろうか。
数ある有力論社候補の中で、大棚中川杉山神社は「式内本宮 杉山神社 武蔵國四十四座之内都筑郡一座」と式内社であることを堂々と標榜している唯一の杉山神社である。鳥居の前に置かれている写真の社号標も安政三年に氏子たちの手で建てられた。