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センター北駅の西側にある大棚中川杉山神社は、もともと大棚の杉ノ森にあった。杉ノ森とは、現在の大棚町のうち、西は大崎橋から東は勝田橋近辺までの一帯を指す旧地名である。北側は大棚西や牛久保東の一部にも広がっていた。現在すぎの森幼稚園があるあたりがその中心だ。ちょうどそのあたりにかつて大棚杉山神社があった。今も昭和三年に建てられた記念碑が中川小学校入口交差点横にある大棚町公民館の裏手に小さな赤い鳥居のお宮とともにひっそりと立っている。


記録によれば、昔はさらに森の上方(中腹)に鎮座していたが、社が焼失したため、早渕川沿いのふもとに遷座したようだ。港北ニュータウンの開発以前、杉ノ森は中川小学校の西側まで岬状に伸びる小山だったようなので、古跡もいまでは住宅地や道路になっているのかもしれない。その北側には旧大山街道と中原街道とを結ぶ鎌倉時代の古道があったらしいが、今も中川小から中川中に抜ける杉ノ森の尾根伝いの間道は往時の面影を残している。その南側、昔ながらの木立が残る斜面一帯は、すぎの森幼稚園の裏手にあたる。すぎの森幼稚園の吉野園長の話によれば、その敷地では大雨になると今も出水があるという。杉ノ森もいわゆる谷戸なので湧水や井戸はめずらしいとも言えないが、大木と清水は神社にとってかかせないことを考えれば、ここは古くから社たるべき森だったとおもわれる。たしかに、この森は、昔ながらの自然が今も点在するこのあたりにあっても、まわりの風景とは一線を画すような落ちついた佇まいがのこっている。ただ残念なのは杉山というよりも、いまでは青竹に侵食された竹山にちかい。となりの大棚杉の森ふれあい公園の森に行けばまだ多少の名残を目にすることができる。写真の記念碑の刻字によれば、大正四年に大棚青年会が養蚕模範指定地区を目指し、一帯を桑畑にしたが、採算が見込めず、結局竹林にしたとある。蚕やタケノコで、すこしでも農村の生活を豊かにしようとした行政からの指導にもとづく試行錯誤の結果の顛末なのだろう。おそらく杉ノ森の代名詞である杉の木立と大正三年まで残っていたといわれる杉ノ森の旧跡はともにその際に取り除かれたものとおもわれる。


ちなみに大棚杉山神社の別当寺であり、同じ連山の東側に位置する龍福寺の山号は大杉山である。その昔、杉ノ森の一帯はまっすぐに天に向かって伸びる杉の巨木にあたかも埋め尽くされているような風景だったのではないだろうか。その森にあるので杉山神社、と近郷の人々に呼ばれるようになった経緯は、きわめて自然な流れとおもわれる。言い伝えでは平安時代の創建とあるが、はっきりとした創建年代は不明である。もともとは日本武尊のみを主祭神としていた。延喜式内にある都筑郡杉山神社の有力論社の一つといわれるが、天正時代以前の歴史は、実のところよくわかっていない。明治になり、中川村旧五ヶ村内では筆頭の郷社に列格されている。


当時の大棚杉山神社の境内の様子は、歴史博物館の近現代コーナーに常設されている3Dプロジェクターを通してうかがい知ることができる。そこでは明治時代の中川小学校の子供達の暮らしぶりがドラマ風にえがかれている。大棚の村民、栗原恵吉が嘉永年間に記した『大棚根元考糺録』によれば敷地は二十八間十八間(およそ50mx32m)とある。南方を流れる早渕川をはさんで勝田杉山神社と向かい合っていた。


それ以前、明治四十四年に八幡山の八幡社、吾妻山の吾妻社、大塚の神明社が一村一社令により杉山神社に合祀されている。ちなみに吾妻社の別当寺が現在の敷地のとなりに立っている慈眼寺である。また今も境内に鎮座する第六天社の石も江戸時代から吾妻山に祀られていたらしい。尚、中川村は近隣の大棚、山田、茅ヶ崎、牛久保、勝田の旧五ヶ村を合併して明治二十二年に成立しているが、明治三十九年に発令された神社合祀令は一町村一社を原則としているものの、中川村にあっては、当初から相当な反発があったものと想像され、結局、旧五ヶ村ごとに統一することで決着したようだ。それにより、旧大棚村は大棚杉山神社、旧山田村は山田神社、旧茅ヶ崎村は茅ヶ崎杉山神社、旧勝田村は勝田杉山神社、旧牛久保村は請地にある天照皇大宮(旧神明社のことか)にそれぞれ統合された。


その後、明治四十五年に大棚杉山神社は現在歴史博物館のある大字大棚字大塚の高台に移転した。社は、大きな松の木の生える見晴らしのいい高台にあったようだ。移転後も中川村大字大棚の大棚社として親しまれていたが、昭和十四年の横浜市港北区への編入に伴い、神社のある上大棚地区が中川町と改称された。それが今日、大棚中川杉山神社とよばれるにいたる契機である。ちなみに歴史上、中川という地名や呼称がこのあたりに存在したことは一度もない。明治時代、五ヶ村の合併時に造られた行政地区としての名称である。五ヶ村の中央を流れる早渕川をイメージしたのであろうが、五ヶ村それぞれを平等に列しようとする配慮の末の名称といえる。また現在牛久保にある中川小学校は明治七年の創立だが、当初は大棚学舎、大棚学校とよばれていた。


戦後も大棚中川杉山神社は港北区中川町1083番地,1084番地の高台にひっそり鎮座していた(当時はそのあたりも吾妻山と呼ばれていた)。ちょうど川の対岸は茅ヶ崎の杉山神社だった。写真(国立国会図書館デジタルコレクション:https://ja.localwiki.org/yokohama/%E5%A4%A7%E6%A3%9A%E6%9D%89%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)を見ると昭和後半まで茅葺屋根の質素な造りだったようだ。やがて港北ニュータウン建設計画により、大塚歳勝土遺跡から連なる西方の山は切り崩されることになり、社も数十メートル南に位置する吾妻山の頂上に仮遷座することを余儀なくされた(現吾妻山公園)。尚、その地はもともと吾妻社があったところらしい。


そして平成四年に現在の場所に四度目の遷座をおこなった。その際、土地八十坪を売却して得た収益および寄付金、移転補償金で、社殿の建替、移築を行い、平成七年に新社殿が落慶。またその折に、他の多くの杉山神社で祭神とされている五十猛命の霊廟を和歌山の伊太祁曽神社から拝受し、日本武尊とならんで社の主祭神とした。五十猛命はスサノオの子どもであり、植林の神であるところから、杉の木との関係が深いと言われている。


しかしなぜこのときに五十猛命を勧請したのだろうか?実は大棚中川杉山神社では神社の御璽が行方不明になっている。江戸時代末の天保年間に大棚杉山神社は、神祇官総司である白川伯王から、同家第四十九代雅寿王揮毫による杉山神社の扁額と延喜式神名帳に記された式社であることの証書を入手するのだが、その決め手となったのが他ならぬ所伝の神璽だった。同社の別当である龍福寺の住職長伝が探し出したという。よってそのときまで御璽は確かに存在したはずなのだが、その後、忽然と消えた。御霊璽を保存する箱はあるのだが中身は存在しない(代わりに一幅の仏の絵が収められているという)。遷座にあたり御霊がないままでは、さすがにさしさわりがあると考えたのか、うがった見方をすれば別の神様の御霊を勧請するという名目で社のあらたな神璽とするねらいがあったのかもしれない。神紋は右三つ巴である。ちなみに早渕川沿の茅ヶ崎、勝田、吉田の各杉山神社ともに左右の混乱が部分的に見受けられるものの基本的に同じ神紋を使用している。


やむをえない事情があったにせよ、四度も遷座している神社というのは非常にめずらしいとおもう。神社というのは、やはりその場所に神を祀りたくなるような因縁や自然があるからこそ、建てられ、崇められるのであり、その意味で土地や風景とは本来切っても切れないはずである。近隣の杉山神社がいずれもいにしえより変わることなく、早渕川を見下ろす高台に立ち続けていることを考えると、大棚社の辿った変遷はものがなしくもある。


嘉永のころ、大棚の林家門徒であった栗原恵吉は、杉ノ森の高台からふもとに遷座したことでさえ先人の不覚として憤っていた。また杉山神社研究の権威である戸倉英太郎氏は、それから半世紀ほどでさらに大塚の吾妻山に移転したことに対して『杉山神社考』の中で以下の通り不快感を示している。
「丘上より丘下にうつしたのさえ時の司人の不覚といった栗原恵吉の気持ちを、氏子の人々が察したならば此の三遷は実行されなかったであろう。筆者は吾妻山奉遷の事由を氏子惣代に問うた。其の返答は村の中央であるとか、或いは経済上の関係からであるとかであった」
戸倉英太郎氏は、論社の最有力候補として茅ヶ崎社を推し、大棚社に対してはどちらかというと好意的な見解を示していないような気がするが、その思考過程には多少なりとも大棚社の変遷の背景が影響しているようにおもわれてならない。