
いわゆる論社と言われる古い杉山神社は、太古の遺跡との関わりが指摘されがちである。鶴見駅近くにある鶴見神社も元は杉山大明神と称されたが、まさにその場所がはるか弥生時代から古墳時代にかけて貝塚であったことがよく引き合いに出されるし、新吉田の杉山神社は、江戸時代に書かれた「新編武蔵風土記稿」の中でもすでに貝塚との関わりが指摘され、実際北川貝塚(早渕三丁目)や北川表の上遺跡などが近くから発見されている。大熊社には折本貝塚や大熊仲町遺跡(仲町台三丁目)があり、戸部社の近くには池ノ坂貝塚があるという具合に、近隣の貝塚や遺跡の存在が、式社の論拠の一つとして取り上げられることが多いように思われる。貝塚のような縄文時代の遺跡と平安時代に登場する杉山神社との間には、大きな時代差があることから、直接関わりがあるとは思えないが、ただ杉山神社がそれ以前の奈良時代や古墳時代にすでに存在したこともありうる以上、はるか昔に土着した先祖の鎮守として古代から営々と受け継がれたという説もあながち無視できないのかもしれないし、そう考えるととてもロマンチックである。たしかに大棚、茅ヶ崎、勝田の三つの有力論社の近くには大塚歳勝土遺跡(大棚西)があるし、このあたりはさらに遡ればまだ早渕川が東京湾の入江だったころに生まれた境田(茅ヶ崎中央)、南堀(南山田)、西ノ谷(南山田二丁目)などの貝塚が点在する有数の遺跡地帯である。遺跡との関わりがあまり指摘されることのない西八朔のまわりにも古墳が多い。星川の周辺にも遺跡がある。早渕川周辺にある北川表の上遺跡(早渕三丁目)では、実際、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良、平安時代までの各遺構が同じ場所に積み上げられるように残っていたというから、案外昔の人は、千年、二千年単位でひとつの場所に住み続けることが珍しくなかったのかもしれない。
そして、これらの有力論社や由緒不明の古い神社の特徴は主に鶴見川およびその支流や帷子川、大岡川の高台にあることである。一般的に杉山神社は周辺河川の水難避けのためにつくられたとか、都筑郡を統治することになった出雲や畿内の有力豪族が地元から勧請したのではないかと言われているが、たしかにその多くは横浜市の半分近くが海だったころの古代の陸地と一致していることから、祖先の居住地と因縁があり、もともとそれぞれの遠い祖先の土地や魂を祀るために作られた祠や祭祀場が、時とともにいつしか由緒も忘れ去られるほど深い杉の森に覆われたために杉山神社と呼び習わすようになった、という説がもしかしたら成り立つのでは、と本気で考えてみたくもなる。
という思いつきから、まとめたのが上記の地図である。現在の横浜・川崎周辺地図に主要杉山神社と河川、そして縄文時代後期以降の主要遺跡をプロットし、そこへ約6000年前の海岸線を重ねてみた。